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「時」の歩み

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「子どもたちに導かれて

「あけぼの」2005年4月号より) 酒井 新二


阪神淡路大震災から10年、その傷跡は人々の中にまだ残存しています。「防災」に対する注意が喚起されだしていた昨年10月に中越大地震、12月にはスマトラ沖大地震とインド洋大津波……自然の猛威は、被災地住民の命と生活を根こそぎ奪い、筆舌に尽くしがたい惨状を現出しました。犠牲者の半数以上が子どもだと報道されています。現地に飛んでいって、孤児となった子どもたちを、せめて抱きしめたい衝動にかられ、無力感に打ちのめされそうになります。

「地球全体が苦しみにあえいでいる。あまりに無思慮な搾取によって、地球は長い間虐待されてきた。神の庭園の恵みをむさぼる人類が、庭園を荒らし尽くしてきた」E・キューブラ・ロス(米国の精神科医)の言葉です。この言葉を繰り返すうちに、私の記憶の底に沈んでいたメキシコのオマール少年のことが思い出されました。


ぼくのジャングルを救って

1989年だったと思います。メキシコで熱帯林を守るために、たった一人で立ち上がったオマール君の活動を、スウェーデンのモニカ・サーク(文)とB・A・ルーネルストロム(絵)とが描いた絵本を友人からプレゼントされました。『ぼくのジャングルを救って』というタイトル、そしてその内容に大きな衝撃を受けました。

ミキシコの貧しい家庭で両親と共に暮らすオマール君は、動物が大好きな心優しい、当時8歳の少年でした。ある日テレビのニュースで、動物たちの暮らす美しいジャングルが、次々と破壊されていくのを知ります。ショックを受けた彼は、父親に訴えます。「ぼくのジャングルが殺される!」父親はオマール君に何気なく言ったのです。「そんなに心配なら、自分でジャングルまで行って、どうなっているか確かめるがいい」。

彼はその言葉を素直に受け止め、ある晩両親に、これからジャングルまで行って、現場を見てくると告げました。父親は驚き、そして息子が自分の言葉を実行していることに気づくと、オマール君の意志を尊重し、彼に同行することに決めました。それを知った母親は咎(とが)めることなく、むしろ励ましの意味を込めた、森をイメージした「旗」を作り、二人を送り出しました。オマール君親子は、1,400キロの行程を29日かけて歩き、破壊が進むラカンドンジャングルを確かめたのです。破壊を阻止するため、メキシコシティの大統領府を訪ねたオマール君は、「ジャングルを殺さないで」と直接大統領に訴えました。しかし、必死の叫びは届かず、開発と称した森林伐採は止むことがない中、オマール君はあきらめず、熱帯林を守ろうと叫び続けています。

彼の活動は、スウェーデンや日本の子どもたちに支持され、熱帯林を守ろうという子どもたちの支援の輪が大きく拡がったのです。オマール君に会ってみたい……そう願っていました。 1990年、ニカラグアへの旅の途上、幸運にもその願いが現実化しました。絵本に紹介されたころ8歳だった彼は15歳となり、正義感溢れる少年に成長しておりました。

オマール[地球の血は石油です。人間は吸血鬼のように血を吸っています。地球はやせ衰え、病気になっています」
 私「責任は私の国にもありますね」
 オマール「もちろんです」

黒目がちの澄んだ瞳で、きっぱりと言われた言葉が忘れられません。


共に生きる心

大阪教区・松浦悟朗司教が書かれた「共に生きる心」と題された随筆を偶然目にし、心を奪われました。その後、機会があるたびにコンサートや集いで朗読させていただいています。抜粋をしたためます。

先日、新聞の切り抜きで『ちょっといい話』という記事を見せて貰った。ちょっとどころか、最高の話だった。次のような内容だ。

『公園で一人の幼い子どもが転び、急に泣き出しました。そこへ4つくらいの女の子が側に走り寄りました。こんなとき、皆さんならどうしますか。助け起こすか、励ますか……。ところが、その女の子は倒れた子のそばまで行くと、自分も倒れたのです。そして、倒れている子を見てにっこり笑いました。倒れていた子もそれを見て泣きやみ、そして笑いました。その女の子は「立とうね」と言いました。「うん」ふた手とりは一諸に立ち上がりました。これは、命令でもなければ、激励でもありません。相の共感であり、共通の立場に生きることです。私は神様か仏様が、その女の子に宿ったのかと思いました。』

倒れた子は、無理やりでなく、仕方なしでもなく、自分の意思で起き上がった。きっと、駆け寄ってきた女の子の“共に生きよう”とする心に触れたからにちがいない。共に生きる心とは、相手の痛みを共感することであり、また友として一諸に歩みたいと、真に望むことであろう。人がこの心につき動かされて見える行為に及んだとき、たとえそれが理解し難い行為、愚かと思える行為であっても、人を動かし、生かす力となるのである

司教は倒れている人の痛みを共感できなくなりつつある、そして子どもの姿を、「神が宿っている」と感じられなくなりつつある私たちのために、主はへりくだって、悔い改めの洗礼を受けられたと結んでおられます。オマール君や公園の女の子、そして日常生活で出逢う子どもたちの邪気のなさ、無防備さ、寛容さ、ときには驚くほどの勇気ある行動に、触発され、気づかされることが多くあります。社会の思惑などとは無関係に、瞬時を全身全霊で生きている子どもたち。その中に息づく神の現存を感じます。

「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とは聖書の言葉です。子どもの命を大切に守り、学ばなければ、と四旬節の日々に思いを新たにしています。


著者紹介:
酒井 新二(さかい しんじ)
共同通信社社長を経て同社顧問。1986年、フランス国家功労勲章オフィシエ章受章。著書『カトリシズムと現代』『カトリックが拓く日本の道』『日本の進路・キリスト者の選択』ほか

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