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私とベトナム戦争

「あけぼの」2005年6月号より) 新谷のり子


ソン神父との出逢い

2002年桜花の散り始めるころ、私はファム・ディン・ソン神父司式のもと、おそ~い結婚をいたしました。ソン神父との出逢いは1995年3月17日、阪神淡路大震災から2か月後のことでした。この日、厚木教会では聖堂を市民の人々に開放し、ともに被災者を支援するためのチャリテイー・コンサートを催しました。被災地神戸からの報告者として参加してくださったソン神父は、前年3月に司祭叙階式を終えられたばかりでした。被災したベトナム人支援のために常駐している神戸での活動、被災された人々の生活の様子などを、真摯(しんし)な態度と不思議な力を放つ瞳で熱く語られ、その報告は参加者の心を深くとらえました。

そのときの忘れられない経験があります。私が唄わせていただいた後、教会の方と一諸に募金箱を持って教会入口に立っていたときのことです。高齢の小柄な女性が、にぎりしめた紙幣を私に渡してくださいました。「教会にははじめて来ました。神父様のお話に胸がつまりました。これは、私には必要のないお金です。どうぞ神戸に届けてください」と。あまりの高額に少したじろぎましたが、その女性の頬をつたう涙が美しく、感謝と感動で私もともにさわやかな涙にくれました。

その日、友人が話してくれたソン神父が歩んで来られた足跡は、私自身を内省へと導いてくれるものでした。1963年当時のベトナム共和国(南ベトナム)で生を受けたこと。サイゴン陥落によるベトナム戦争終結後、南北ベトナムが統一されベトナム社会主義共和国となった祖国を、1981年17歳のときにボートで脱出したこと。死線をさまようほどの苦難とその後の差別を越えて今日があることなど。それを機に、ずっと私の中で引きずってきていた「ベトナム戦争」が息を吹き返しました。

そして、その話をソン神父から直接うかがいたいと思っていたとき、ある出版社から「子どもたちへのメッセージを物語にして書いてみませんか」と、声を掛けていただきました。私はすぐに、「ベトナム戦争とソン少年」の物語を、子どもたちに伝えたいと思ったのです。しかし、神戸のソン神父を訪ねたとき、その私の考えは大いなる驕(おご)りと気づかされました。被災者救援活動で忙殺されている中、私のために誠心誠意語るソン神父の体験談を文字にしようと考えていた私は、あまりにも安易過ぎました。「のり子さんはホーチミンを支持し、ぼくとは反対の立場だったけれど、戦争には反対し行動していたのですね」と、あの戦争で「難民」となって受けた辛酸をことさら顕示することもなく、反戦運動にかかわっていた私の行動を批判するでもなく、そのまま「今」を受け入れていることに、人間としての奥深さと尽きない畏敬の念を感じたのです。


何のための戦争か

「歌手になりたい」、一心不乱にそう願っていた私が、社会に目を向けなければと考えはじめたのは、報道される「ベトナム戦争」がきっかけでした。1965年アメリカによる北ベトナムへの爆撃が開始され、戦争は泥沼化、拡大の一途をたどりはじめておりました。国際世論も、賛否両論に、「ベトナム」が最大の関心事でした。そんな中、日本は米軍基地としての役割を忠実に果たしていたように思います。日本から飛び立つ米兵、運び込まれる負傷兵、燃料供給、兵器修理など、安保条約のもと、日々の暮らしの中に「ベトナム戦争」はともにありました。そして、積極的にアメリカを支持した日本政府に、「否」を表明した人々の行動はダイナミックなうねりになり、社会を震撼(しんかん)させるまでになっていきました。

その行動の中心を担っていたのは若者でした。欧米諸国の若者たちの行動と歩調をあわせるように、「平和を希求する思い」は、大人が構築した社会構造そのものに矛先を向けはじめていました。ピート・シーガー、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、ビートルズなど、「愛と平和」の大切さが歌声となって、世界中に溢れていた時代、私も傍観者ではいられませんでした。

被差別部落の存在、ハンディキャツプの人々との出逢いと暮らし、在日外国人の歴史と置かれている現実、沖縄など。経済成長を謳歌(おうか)する日本社会の中に、ともすると忘れがちとなる現実があることを知りました。あまりにも知らないことが多すぎた私に、あの戦争の時代は学びのチャンスを与えてくれたのです。

1996年、厚木教会の友人たちとソン神父に随行し、「ホーチミン」と変名されたサイゴンを訪れました。社会主義体制を堅持しながら資本主義経済を導入したドイモイ政策のもと、喧噪と活気に溢れたホーチミン市。一見、戦争があったことなど忘れてしまいそうな光景でした。交流コンサートの会場となった教会は、入りきれないほどの人で、その歓迎の熱気に感慨無量でした。しかし、そんな中でも、監視されていることを意識せざるを得ない息苦しさを始終覚えておりました。反戦運動のころ、私が「理想郷建設のシンボル」と考え、ソン神父が死を覚悟してまで逃れようとした「自由」の正体を見た思いでした。

最近ある雑誌で「国境なき医師団」の創設者、クシュネール医師の記事に目がひかれました。ベトナム反戦の時代に、パリで仲間と共にこの運動に参加していたクシュネール氏が、機動隊に投石しながら、自問自答したという言葉です。「この行動は、富める国の甘やかされた若者のエゴイスティックなロマンではないのか」。ソン神父の出現により、私の心の声が叫びはじめていた言葉と同じでした。

この春、ソン神父が16年間を費やし執筆した自伝『涙の理由(わけ)』(女子パウロ会)が出版されました。読後、価値観の定まらない混乱が、いまだ私の中にあることを自覚しました。

「何のための戦争だったのか」と。各国の為政者が、戦争や紛争の後にまで及ぶであろう過酷な状況を認識し、「あらゆる武力の放棄」を、真剣に考えることが急務だと思います。繰り返される暴力がある限り、「ベトナム戦争」は、いまだ終結していないと思えるのです。


著者紹介:
新谷のり子(しんたに のりこ)
「フランシーヌの場合」でデビュー。「人権学習」の講師ほか独自のコンサートで活躍中。著書『フランシーヌはたち』、アルバム「祈り」「うたたち」ほか。

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