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安倍政権の正体

「あけぼの」2006年11月号より) 酒井新二

自民党の新総裁すなわちポスト小泉の総理が安倍晋三氏に決まった。こんどの自民党総選挙が“消化試合”と言われるのは、小泉政権5年の間に自民党の“派閥”は実質的に姿を消してしまったからである。それは小泉という政治家は“柳と蛙の噺”のようにあきらめずに総裁選に挑んでいるうちに国民的人気が湧いて、それを背景に総裁・総理の座についた。

「自民党をぶちこわす」という小泉の台詞が国民に受けたと言われるが、それはすでに自民党という政党自体が存在理由を失っていたからであろう。このような小泉の政治スタイルは典型的な“ポピュリズム”だが、問題はむしろポピュリスト政治家に拍手する国民の側にあると言わねばならない。国民に政治を見る厳しい眼がないとき“ポピュリズム”がはびこるのである。

ヒトラーもムッソリーニも本来そのような民衆の弱点につけこんで権力を掌握した。東条の場合は“天皇(制)との関係”という日本独特の事情があったが、東条人気が一種の“ポピュリズム”であったことは間違いない。


辺見の安倍批判

辺見庸(作家・評論家)は、小泉政権を継ぐ“安倍政治の性格について「単純で陽性な独裁者・小泉から“陰熱”の国家主義者・安倍へ–––正念場がやってきた」と言っている。(「現代」10月号)「ぼくは安倍という人物は巷問言われる“小泉首相のエピゴーネン(模倣者・亜流)どころか、小泉氏以上の確信的な憲法否定論者であり、異様なほど好戦的な考えの持ち主と見ています」「彼の近著『美しい国へ』には『憲法前文には敗戦国として連合国に対する“詫び証文”のような宣言がある』という驚くべき記述がありますが、多分彼はこの国の戦後の成り立ちを根本から覆すような国家観をもっているのでしょう。古典的な強権発動型ではなく、見た目には穏やかな協調主義的な“下からのファシズム”がこの国にはいまさかんに生成されているからだとも言えます」

立花隆(評論家)も同誌の論文「改憲政権、安倍晋三への宣戦布告」で、次のように警告している。「安倍の政治的見解は戦後民主主義社会の根幹をなす枠組みを全否定しようというものだ」「南原繁(元東大総長)らが苦心惨憺して作った戦後民主主義国家の基本的枠組みを片端から掘り崩してしまおうとする動きである。憲法や教育基本法のような、戦後日本の最も基本的枠組みをなす法律ですら、いまや変えるべしとする側の勢力が多数占めつつある」「一見圧倒的な強さは同時にすべてを失いかねない脆弱(ぜいじゃく)さと表裏一体であることを感じ取っていたのは、他ならぬ安倍本人だった」(同)

 

事実、安倍の真の敵は民主党代表の小沢一郎なのである。自民党のすべてを知りつくした小沢は来年の参議院選挙に向けて着々と手を打っている。参院選で自民党が小沢民主党に敗退すれば安倍の政治生命は一挙に終幕を迎えるだろう。安倍は『美しい国へ』(2006年7月)という著作の序文で、自らを「闘う政治家」と性格づけている。そかし『何と闘うか」が問題なのである。


ピタウ大司教の見解

ヨゼフ・ピタウ大司教が、「諸君」9月号でインタビユーに答えている。

「信仰の自由は民主主義の重要な原則のひとつ。しかし民主主義のもうひとつの大原則は政教分離である。宗教と政治は多くの接点があるが、両者の癒着によってさまざまの弊害が生じる。カトリック教会も過去に大きな過ちを犯した。両者の領域は、はっきり区別されていなくてはならない。靖国神社が日本という国の唯一のシンボルとされてしまうと“国家宗教”となり危険なこと。小泉総理が国民を代表として靖国を参拝することは、こうした懸念を強めてしまう。公人と私人の区別、政治と宗教の区別はとても難しいが、だからこそ政治的指導者は曖昧さを避ける努力をしなければならない。『公的、私的にこだわらない』というと小泉首相の発言は、両者の境をうやむやにしようとしているようにも取れる」「神道は立派な宗教ですし靖国神社も宗教です。1932年の上智大「暁星中)のカトリック学生の靖国参拝拒否問題に対して、当時のカトリック教会の態度は曖昧なものでした。このケースでは国家の強い要請のもと一種の強制として参拝が行われている。いま同様の事態が生じたとしたら、信仰の自由や政教分離に反するものと言えるでしょう」

 

質問者(細川珠生氏)は「陸軍や文部省は参拝は愛国心と忠誠を表すだけで教育上の理由で行われており、宗教的な慣行ではないと回答した」と言っているが、これは誤りで、当時の教会側が政府に対してこのようなことにしてほしいと一方的に希望したのである。これに対して文部省側はなんとも答えなかったのが真相である。

当時のバチカン当局は「靖国参拝は宗教行動ではないため、日本のカトリック信徒は自由に参拝してよい」とし、当時の大阪大司教も、この考えに同調した。しかしこれは教会側の一方的解釈に立った行動であり、戦後、白柳大司教はアジア司教会議でこの態度を訂正した。


36年の誤りをくり返すな

ピタウ師は「カトリック教会は靖国神社に参拝することを否定しません。だれがどこで祈っても、それは個人の自由であり神社に参ったからといって神道の信者になるわけではありません。靖国神社が『宗教』を超えた特別な国家的シンボルであるという考え方には賛成できません」という。これはバチカン当局やこれに同調する一部の日本のカトリック者に対する配慮かもしれないが、この曖昧さはよくない。靖国神社の基本的性格は「遊就館」の資料に書かれているとおり、宗教的存在である。ケヴィン・ドーク氏(ジョージタウン大教授)が「諸君」8月号で参拝が教育上の理由で愛国心と忠誠を表すだけで宗教的慣行でない」というのは、相も変わらず1936年の誤りをくり返しているものである。


著者紹介:
酒井 新二(さかい しんじ)
共同通信社社長を経て同社顧問。1986年、フランス国家功労勲章オフィシエ章受章。著書『カトリシズムと現代』『カトリックが拓く日本の道』『日本の進路・キリスト者の選択』ほか

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