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精神の砂漠の中で

「あけぼの」2007年3月号より)酒井新二


国家論の氾濫

20069 年の日本の論壇では“国家”や“愛国心”をめぐる論議がにぎやかだった。そのひとつに藤原正彦の『国家の品格』がある。昨年のベストセラーだったといわれる。日本で国家論や愛国心をめぐる論議が盛んなのは、日本の政治や思潮の流れが再び“右”にハンドルを切ったことを示しているといっていい。


新渡戸の「武士道」

藤原はこの著書の「第五章『武士道精神』の復活を」の中で新渡戸稲造の有名な著作『武士道』について次のように述べている。「武士道に明確な定義はありません。新渡戸は『武士道』を書いているが、それは新渡戸の解釈した武士道です。『武士道というは死ぬことと見つけたり』で有名な『葉隠(はがくれ)』にしても、山本常朝(つねとも)が口述した佐賀鍋島藩の武士道に過ぎない。

それでも私は新渡戸の『武士道』が好きです。新渡戸との武士道解釈にかなりキリスト教的な考え方が入っていることは確か。それが元々の鎌倉武士の戦いの掟としての武士道とはかけ離れている、との説も承知している。しかし大事なのは武士道の定義を明確にすることではなく、『武士道精神』を取り戻すことです」


「武士道」の動機

これは新渡戸の「武士道」の解釈としては、妥当なものであろう。新渡戸が『武士道』を書いた動機は第一版の序に書かれているように、彼の友人ベルギーの法学大家ド・ラヴレー氏から「お国の学校には宗教教育はないとおっしゃるのですか」「宗教なしでどうして道徳教育を授けるのですか」と質問されて、それに即答できなかったことによるものだという。新渡戸は日本の封建制度と武士道を理解しなければ、「現代日本の道徳概念は結局封印された巻物に過ぎない」と考えたのである。

新渡戸が『武士道』を書いたのは、1899年だから今から108年も前である。それにもかかわらず21世紀の今日になっても、日本人の倫理観を語るのになぜ「武士道」なのだろうか。それは日本人が21世紀の現在でも、しっかりした倫理の根拠を持っていないことを示している。

今さら“国家”を持ち出すこともできないだろう。藤原はその著書には「国家とはなにか」という国家の本質については何もふれていない。藤原は「ナショナリズム」はイデオロギーだが、「愛国」即ち「パトリオティズム」は正しいという。しかし「愛国」ないし「愛国心」は「国家」を前提とするものであるかぎり、それがイデオロギー(観念)であることに違いはない。「家族愛」「郷土愛」までは実体的といえるが、「国家愛」はそれが「ナショナリズム」だろうが「パトリオティズムだろうが「イデオロギー」というべきだろう。

日本人は単一的民族でありかつ島国であるから、日本は圧倒的多数の「やまと民族」の「国家」だと信じている。しかしそれは先住民族の「アイヌ」の存在を無視しているし、日本に生まれ育ち日本に住んでいる多くの「朝鮮民族」やその他の民族の存在をも忘れている。「国家」とは本来政治ないし行政上の地理的名称であり、それ以上でも以下でもない。実在するものは人間であり、個人であり、人種としての民族である。


新右翼拡大の欧州

欧州でも右翼政党が静かに勢力を広げているという。(2006年12月1日、朝日新聞)パスカル・ペリノー(現代フランス政治研究所長)によれば、欧州で右翼が存在感を増しつつある理由には次の三つが指摘できるという。

① 既存の政治に対する拒絶反応や政治家への不信の広がりだ。政権が左でも右でも目に見える違いがない状況が続いた結果、不信の受け皿が野党に向かうかわりに左右双方、つまり政治全体が見放された。政治家が腐敗し、口先ばかりという不信に右翼はつけ込んだ。ヒトラーが台頭した1930年代とよく似ている。

 

② 社会及び経済的な停滞。安定雇用が過去のものとなり、雇用流出に伴う失職の恐怖、教育を受けても将来が約束されない不安、人生設計が描けない閉鎖感が広がった。

③ アイデンティティー危機。米中心の一極化、中国やインドの台頭で欧州の人々は自信を失いつつある。「右翼政党が主張する反移民や排外的な政策が共感を得ていると見るのは早計だ。つまり右翼への投票は拒絶の意思表示なのだ。だが選挙に立脚し信頼の上に成り立ってきた代表制民主主義への脅威には相違ない。市民から提案を募る参加型民主主義の試みが注目されるが、誰が最終的に政策を決めるのかという問題は残る。代表制民主主義と市民の政治参加をどう両立させ機能させるか」

日本では幸いに極右の台頭は表面化していない。しかし投票率の大幅な低下は議会制民主主義への信頼感の低下が進んでいるものとして注目しなければならない。


選挙の年

2007年は日本の政界にとって12年に一度参院選と統一地方選が重なる、いわば「選挙の年」である。それは同時に主権者である国民が自らの意志を強く政治に反映させる「政治の年」でもある。

日本の政治・行政は中央・地方で相継ぐ腐敗が表面化し、“戦後民主主義”は大きな危機を迎えている。政治の浄化に大きな役割を担うべき言論(マスコミ)も十分に機能しているとはいえない。日本の民主政治はそれを制約する外部的障害が存在しないにもかかわらず“自浄能力”を低下させるばかりである。その理由は何であろうか。日本人が自らの経済的・物質的繁栄を追求する意欲に比べて、それを制御し方向づける倫理的・精神的理念・哲学に欠けているからではないか。かって日本人の生活を律した儒教的倫理観と仏教的生死観は、今や色あせたものとなった。西欧的キリスト教の影響力も微弱である。日本人は今“精神の砂漠”の中で生きることを余儀なくされている。日本のカトリックはこの状況の中で“オアシス”の役割を果たす意欲を持っているであろうか。(敬称略)


著者紹介:
酒井 新二(さかい しんじ)
共同通信社社長を経て同社顧問。1986年、フランス国家功労勲章オフィシエ章受章。著書『カトリシズムと現代』『カトリックが拓く日本の道』『日本の進路・キリスト者の選択』ほか。

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