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「教育基本法改正」の愚

「あけぼの」2007年4月号より)酒井新二


“戦後民主主義”戦後民主主義が音を立てて崩壊し始めている。60年余り“戦後民主主義”の象徴として存在してきた「現憲法」と「教育基本法」のうち、後者の改正は2006年12月15日、安陪内閣によってあっさりと実現した。同時に防衛庁の省昇格も成立した。歴代の自民党政権が60年余りにわたって果たせなかった“教育基本法改正”がなぜこれほどあっさりと成立したのであろうか。

安陪政権の性格は、小泉政権の亜流に過ぎない。しかも成立して間もない安陪政権の基盤は問題山積みによって砂のようにもろい状態である。にもかかわらず自民党60年の課題のひとつをあっさり乗り越えたということは、何を意味するのであろうか。その理由は雑誌「世界」2月号の「編集後記」で、岡本厚編集長が指摘している通りである。それによれば第1に2005年9月の総選挙で得た2/3を越える大議席という小泉前首相の“置き土産”。第2は、野党の方向喪失と労組の弱体化。第3は、国会審議の空洞化。小泉前首相は野党の質問にまともに答えず、すり替え、居直り、嘲笑であしらった。第4はマスメディアの劣化である。


“マスメディア”の非力

この指摘はいずれも的確だが、中でも最大の問題は第4のマスメディアの政治批判力、 権力批判力の弱化だといわねばならない。「マスメディア」といわれる「言論」の政権 批判力の弱化は、“民主政治”にとってある意味で致命的である。伝統的民主主義は いわゆる三権(立法・行政・司法)の“チェック・アンド・バランス”によって成立するものとされてきた。しかし現代の“民主政治”のかぎは“第4の権力”といわれる“マスメディア”の批判力なしには考えられない。現代のヨーロッパ諸国(EU)とアメリカにおける“マスメディア”の力は“現代民主政治”を成立させているかぎである。“現代民主政治””は“マスメディア”の権力批判が有効に機能しているか否かにかかっている。

アメリカにおける「ニューヨークタイムズ」「ワシントンポスト」、ヨーロッパの「ル・モンド」「ディ・ヴェルト」などに代表される欧米マスメディアの権力監視・批判こそが、現代の民主政治を支えているといっても過言ではない。しかしそれら欧・米の指導的メディアの発行部数は日本の有力新聞の半分にも満たないのである。逆に日本の“新聞”は「読売」「朝日」に代表されるように7、800万部という膨大な部数を誇りながら、その“権力批判力”は米・欧の“新聞” に遠く及ばないのが現実である。むしろ大量の発行部数が日本の新聞の“権力批判”“財界批判”の力を弱めているのである。なぜなら数百万部を維持するための広告収入を確保するためには広告主である“企業”に対する批判に影響がないとはいえないからである。

この矛盾が日本の巨大メディアの“アキレス腱”となっているのである。この事情はTVにおいても同様である。日本の“マスメディア”の力を弱めているもうひとつの理由は、一部メディアと政権与党との密な関係にある。この現象は日本の“マスメディア”の力を分裂させ相対的に政治権力に対する抵抗力を弱める結果となっている。


「改正」の内容

「教育基本法」の改正によって「基本法」の中心的概念であった「憲法との不可分関係」が消え、さらに教育の第一目的とされた「人格の完成」という表現とその考え方自体が消え、それに代わって「公共の精神」「伝統の継承」「新しい文化の創造」などが強調されている(前文)。第2条でも「公共の精神に基づく社会の形成への参画とその発展への寄与」「伝統と文化の尊重それらをはぐくんだ我が国と郷土への愛」が強調される。第6条では「学校教育」における「必要な規律」の尊重が謳(うた)われる。また「家庭教育」における「父母ら保護者の子の教育について第一義的責任」(第10条)「教育行政は国と自治体との適切な役割分担・協力によって公正・適切に行われるべきこと」(第16条)として最後に「政府が『教育振興基本計画』を定め、国会に報告し、公表する」こととして、“政府の役割”でしめくくっている。

このように現行法に比べて大幅に政府の介入が強化されており、将来の「憲法改正」を予想した規定が多いのが特徴である。前記「編集後記が指摘している通り、伊吹文科相が「改正教育基本法は自民党の新憲法草案との整合性をチェックしている」(2006年11月27日)などと、早くも「憲法改正」を想定した不見識な“仰天発言&オオゴリの姿勢を露呈したものである。なぜなら、改正教育基本法は、現行憲法に照らし“違憲立法”であることを告白するものものだからである。「改正基本法」は「基本法」の前文にあった「平和を希求する人間の育成を期する」という「基本法」の大目的が消え、次の憲法改定、特に第 9条の「戦争放棄」の条文改定を準備するものとなっている。


務台理作氏の指摘

さらに、「基本法」第2の柱であった「個人の確立」が消えた。野田正彰氏(関西学院大教授)は最近の論文(「世界」2007年2月号)で、「教育基本法」制定時の「教育刷新委員会」における哲学者務台理作委員(東京文理大学長)の発言を紹介している。「人格の完成とは、個人を犠牲にしないこと、個人を犠牲にするのは誤った精神主義である。学行一致とか修練だとかいった教育が非常な禍をした。個人を犠牲にせず、個人の自由をあくまで尊重する精神が、教育の基礎である」「公に仕えることは非常に大事だが、それは精神的に公に仕えるということだけではない。近代的意味で公に仕えるといういことでなければならない。それはやはり、個人というものを確立できるような段階を一度経なければならない。それが今までの日本に欠けていったのではなかい。」この指摘は重要である。


「教育勅語」への逆もどり

新教育基本法は現憲法と双璧をなした旧教育基本法を台なしにし、現憲法との一体性を断ち切り、明治の「教育勅語」に逆もどりするという時代錯誤の立法である。このような法律を民主主義の手続きに則る立法として受け入れることは、「議会制民主主義」の“はきちがえ”であり、“ヒトラーの民主主義””に屈するに等しい愚行といわなければならない。


著者紹介:
酒井 新二(さかい しんじ)
共同通信社社長を経て同社顧問。1986年、フランス国家功労勲章オフィシエ章受章。著書『カトリシズムと現代』『カトリックが拓く日本の道』『日本の進路・キリスト者の選択』ほか。

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