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“日米同盟”とは何か

「あけぼの」2007年7月号より)酒井新二


安部総理は4月27日、就任後初めて訪米し、日米首脳の協調関係を演出してみせた。首相はその前に中国・韓国などアジアの近隣諸国を訪問し、小泉前首相が靖国問題で、これらの国々との関係を冷却化させたことへの反省を内外に印象づけたのである。しかし訪米の直前になって、米国の政界やジャーナリズムで“慰安婦”問題に対する強い批判が浮上した。首相は幹事長時代からの問題については日本軍部の強制を否定するような発言をくり返し、野党やメディアの批判にも無視してきたのである。ところがブッシュ大統領との会談では一転して「人間として、首相として(慰安婦だった人びとに)心から同情している。申し訳ない思いだ」などと釈明した。朝日新聞の社説(4月29日)が「謝る相手が違わないか」と皮肉ったとおり、首相の態度は日本の国民を愚弄するものといわなければならい。


安倍・ブッシュ会談

安倍首相はブッシュ大統領との会談後の記者会見で「日米同盟」という語を度々使っていた。この「日米同盟」という語は極めてあいまいかつ危険なことばである。なぜならそれは「日米軍事同盟」を思わせる用語だからである。

「日米安保」とは正確にいえば「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約」である。その内容は「軍事同盟」ではなく、国連憲章という大わくの中で「日本が軍事的基地を米国に提供し」両国は「極東」における「平和と安全の維持」のために「相互協力」することである。しかし日本は基地の提供以外に「相互協力」の具体的内容は日米ともに明確にされていない。また、この条約の適用範囲は「日本の領域」および「極東」となっているが「極東」の地理的範囲は必ずしも明確ではない。

1960年2月に作成された「政府統一見解」では「フィリピン以北、日本およびその周辺で韓国、台湾も含まれる」となっている。しかしその後、ベトナム戦争の末期には在日米軍の行動範囲がますます拡大し、1965年4月、当時の椎名外相は衆院外務委員会で「極東の地域に脅威を与える事態がその周辺におこる場合には、安保条約適用は必ずしも極東の範囲に限定されない」と答弁して、事実上「極東条項」は空文化したのである。


最後の一線

このように「日米安保条約」の中身は米国の軍事的必要に応じて変化しているのが実態であり在日米軍と自衛隊とは一体的に運用されているといっていい。両者を実質的に区別するのは「集団的自衛権」の行使を認めるか否かだけであるが、小泉内閣まではそれを否定してきた。

ところが安倍首相はその最後の一線を乗り越えることを決意し、そのための私的諮問機関として、4月25日、訪米前に、柳井俊二前駐米大使を座長とする「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設置した。文字通り安倍首相の御用機関である。安倍首相と特に近い関係にある中川一政正調解消は、この「懇談会」を支援するため石破茂元防衛庁長官を中心とする「特命委員会」を設置する意向を明らかにした。しかしさすがに公明党は警戒感を示し、北側一雄幹事長は25日の記者会見で「個別的自衛権の範囲内であれば結構だが、従来の政府解釈を見直していくということであってはならない」と解釈変更に反対した。しかし公明党が最後まで反対を通せるかどうかは極めて疑問である。

民主党の小沢一郎代表は、そもそも自衛権を「集団的」と「個別的」に分けることに否定的であるから、こんどの安倍構想に正面から反対することは困難だろう。共産党、社民党はもちろん批判的、否定的だが体をはって、“世論”に働きかける迫力に欠けている。


マスコミの分裂

マスコミはこの問題には、朝日・毎日・東京各紙と、読売・産経に二分するかたちが定型化してしまっていて、とてもかつての“60年安保”のときのような政治的エネルギーの源にはなりそうもない。マスコミがこのていたらくでは、“世論”に火がつくなどということは夢であろう。

評論家佐高信氏が城山三郎氏の死に関連して「少数派であることを恐れない」といったのは、そのとおりだが、民主主義政治においては、国会の多数が政治の動向を左右するのである。

「多数」が「少数」の意向を汲み取るという「デモクラシー」の正道はまだこの国では成立していはいない。


長崎市長へのテロ

伊藤一長(いっちょう)長崎市長が4月17日夜、暴漢の銃弾によって殺害された。公然たる政治テロが遂に発生した。17年前、本島等前長崎市長が同じく右翼の暴漢によって重傷を負った。なぜこの原爆の地で、このように公然たる右翼テロが発生するのであろうか。長崎はカトリックにとっても特別の意味をもつところである。

時を同じくして米国のバージニア工科大でも35人射殺事件が起きた。

「デモクラシー」を代表する日・米両国で、このようなテロが発生したことは「デモクラシー」という政治体制の倫理的脆弱(ぜいじゃく)さを示すものといっていい。

「デモクラシー」の思想的基盤は「リベラリズム」だが、それは中世的カトリシズムに対抗した「「プロテスタンティズム」と不可分の関係にある。マックス・ウエーバーによって近代的資本主義とプロテスタンティズムの価値観との関係が分析された。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)しかし現代の「企業社会」において、そのような宗教的倫理観が機能する素地は、大企業になるほど存在しない。日本における“企業倫理”とはせいぜい自らの“企業に対する忠誠心”と企業自体の日本社会・日本国家における“遵法精神”ていどにすぎないのではないだろうか。

今日社会においては、米国社会以上に社会の倫理性を担保する力は脆弱だといわなければならない。


著者紹介:
酒井 新二(さかい しんじ)
共同通信社社長を経て同社顧問。1986年、フランス国家功労勲章オフィシエ章受章。著書『カトリシズムと現代』『カトリックが拓く日本の道』『日本の進路・キリスト者の選択』ほか。

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