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“民族国家”越える政治を

「あけぼの」2007年8月号より)酒井新二


「政治とカネ」の問題は「古くて新しい」問題である。それは“非民主政治”においては、ほとんど表面に出ないものだが、“民主政治”においては政治における「カネ」の役割を認め、それを公然化することによって、その弊害を防ごうとしてきた。戦後の日本では「政治資金規正法」(昭和23年)によってそれを担保しているわけだが、現実にはこの法律の枠外に働く「カネ」によって民主政治は常に脅かされているといっていい。この「政治とカネ」の暗部をどのようにして監視し摘出するかは、国民・世論に課された大きな責務である。現実にはその国の「マスコミ」や学者、評論家、政治家などの“監視力”によるところが大きい。このような“監視力”は、政治がどのていど国民を信頼して自らの情報をさらすかにかかっているといっていい。


農水相自殺の衝撃

5月28日突発した松岡利勝農水相の自殺事件は、疑惑の渦中にあったのが現職大臣であっただけに、その衝撃は極めて大きいものであった。現職閣僚の自殺は現憲法下では初めてであり、現在の政治、特に戦後政治を実質的に動かしてきた自民党政治の暗部がついにここまできたかという感を深くさせるものである。それはある意味で日本の“政党政治”が自浄力を失いつつあることの現れであり、同時に国民の “監視力”の弱化を示すものといわなければならない。松岡農水相の自殺とこれに続いた元森林開発公団(緑資源機構の前身)の元理事、山崎進一氏の自殺は、政治資金の不透明な支出、「緑資源機構」に関連する政治献金の不正などを一挙に闇に葬る効果を持つものとされた。

松岡、山崎両氏の死は最悪の場合、両氏の逮捕による安倍内閣自体の崩壊を未然に防ごうとしたものであろう。しかし現実はそれほど単純ではない。国民の厳しい眼は両氏の死によって問題の実態を見誤るほど甘いものとは思われない。自民党内部からさえ松岡氏の辞任を促す声が出ていたにもかかわらず安倍首相はあくまで松岡氏をかばい続けた。これが松岡氏にとってはかえって大きな負担となったのであろう。安倍首相の判断は裏目に出たのであり、松岡氏を窮地に追い込んだといっていい。ここにも安倍首相の読みの浅さ、政治感覚の甘さが出ている。

安倍首相は多くの疑惑を背負って党内にも反対の強かった松岡氏の閣僚起用をあえて実行したが、結果は党内の予想通り安倍内閣と自民党に大きな打撃を与え、ただでさえ不利とみられる参院選挙にいっそうのマイナスを与えることとなった。内閣支持率(「朝日」の世論調査5月26、7)は4月以降復調傾向にあったが、5月末にきて大幅に40%から36%へ急落した。これは松岡農水相の自殺の直前に行われたものであり、今後はさらに下がることが予想される。


政治の“闇”とは

松岡農水相の自殺は現在の政治の“深い闇”をのぞかせている。この“闇”の実体は何なのか。当の安倍首相にもまた自民党の人びとにも正確にはとらえられてはいないだろう。「マスコミ」も例外ではない。5月29日の「朝日」の解説は「政治とカネをめぐる深い闇」と書いたが、その“闇”の実体が何なのかは示していない。「読売」の社説も「戦後、例のない現職閣僚の自殺」「何とも痛ましい、悲惨な出来事」と嘆いたが、結論は「松岡農水相の死をどう受け止めるか。政治が取り組むべき課題は多い」というに止まっている。松岡農水相の自殺は現在の日本政治の真の闇を覆い隠す深い網である。その“闇”とは国会議員—官僚—業者の癒着そのものにほかならない。この“闇”は見えない“闇”ではなく、国民の眼には一目瞭然なのである。一部の政治家がそれを覆い隠そうとしているに過ぎない。


“戦後レジーム”の否定

最近安倍首相は度々“戦後レジーム”という語を用いているが、それは“戦後”を一活して否定するかのように見える。自らの政治は“戦後レジーム”を脱して“新しい時代”にふさわしい政治を実現するのだという意気ごみを見せているのかもしれない。自著『美しい国へ』で自らを「闘う政治家」即ち「国家のため、国民のため、批判を恐れず行動する政治家」と性格づけている。

しかし「国家、国民のため闘う」というだけでは意味をなさない。何が国のため、国民のためであるのか、その内容をはっきりさせなければ意味がないのである。「国のため」というだけではそれはいわゆる「ナショナリズム」のスローガンでしかない。安倍氏が標榜する「闘う政治家」とは「国民の声に耳を澄ますことだ」というが、まさに国民のどのような声に耳を澄ますのかが問題なのである。国家や国民が政治の最終的基準であるならば、それは日本以外の国家、国民の存在・立場を考える原則とはなりえない。「民族国家」を単位とする「国際社会」の尊重、さらに「国際社会」を超えた「人類社会」の尊重に及ぶことが、真にキリストの教えに適合する国家観なのである。


「美しい人類社会」へ

かっての「国際連盟」、現在の「国際連合」も「民族国家」を単位としたものである。現在の国際政治はいぜん「民族国家」を単位としていることは間違いない。しかし21世紀の地球はもはや「民族国家」の利害だけを単位としていては解決できない深刻な問題をかかえていることを科学が示している。先進国家の政治の責任はこの地球的問題を常に視野に入れたものでなければならない。日本の政治も民族国家の枠を超えることが強く求められている。「美しい国へ」から「美しい地球へ」「美しい人類社会へ」こそが、日本の政治と政治家に求められているといわなければならない。


著者紹介: 酒井 新二(さかい しんじ)
共同通信社社長を経て同社顧問。1986年、フランス国家功労勲章オフィシエ章受章。著書『カトリシズムと現代』『カトリックが拓く日本の道』『日本の進路・キリスト者の選択』ほか。

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