homeこんなとこ行った!>広瀬川での「仙台キリシタン殉教祭」

こんなとこ行った!

バックナンバー

広瀬川での「仙台キリシタン殉教祭」

2007/03/05

広瀬川 広瀬川大橋   
広瀬川 広瀬川大橋
★画像をクリックすると、大きいサイズで見ることができます。

2月21日、仙台城下を流れる広瀬川大橋脇下、青葉区西公園内にあるキリシタン殉教碑前で恒例の「仙台キリシタン殉教祭」が行われ、150名ほどの人が集まりました。

1623年、江戸での大殉教の後、仙台藩でも本格的なキリシタン取り締まりがはじまり、ここ広瀬川での殉教は今から384年前のことでした。

殉教地の案内 深沢神父作広瀬川キリシタン殉教記念碑   
殉教地の案内 深沢神父作広瀬川キリシタン殉教記念碑

ポルトガル人宣教師ディエゴ・カルワリオ神父と8人の信徒の寒中水責めの殉教は歴史上、広く知られています。カルワリオ神父は1867年に教皇ピオ9世により、福者とされました。

信仰のために命をささげた殉教者たち、徹底して信仰に生き抜いたキリストの証人を偲び、現代におけるキリストの証人とは?、殉教とは?と問いながら殉教の現場に集まって共に祈るために毎年企画されます。今年の担当は仙塩地区の東仙台教会でした。

儀式書 ミサ   
儀式書 ミサ

きれいなわかりやすい式次第も準備されており、担当の方は早くから会場にきてマイク設定などをしておられました。

この日の司式は東仙台の氏家神父でした。開祭の歌の後に「仙台キリシタン殉教録」が朗読されました。

 カルワリオ神父ら9人は、1624年2月18日午後2時ごろ、牢番によって広瀬河畔に連れてこられた。  それは川岸から4尺(1.3m)ほど離れた大橋の下で、2尺(60 cm)ほどの深さに水を張った水牢と言われた池があり、周囲に杭が立ちめぐらせてあった。
皆は着物をはぎ取られ、水の中に座っていなければならないように、池の中に打ち込まれた1本1本の杭に縛り付けられた。
 その間、泣き声も嘆きの声もなく、人々の耳に響きはじめたのは、イエス・マリアのみ名や、聖き秘蹟に対する賛美、「主は褒め称えられませ」などの言葉であった。・・・
 群衆は神父に向かって怒り狂ったように悪口罵倒したが、彼は平静な気持ちで毅然とした態度をとるように仲間を励ました。・・・
 奉行は皆と共に棄教するなら、皆を助けてやろうと神父説得にかかったが、彼は志と信仰を捨てるよりは、苦しみを忍ぶように皆を諭してあると言って断固として承知しなかった。・・・
 神父の「束の間ですぞ。もう少しで苦しみはなくなりますぞ」と愛をもって繰り返し繰り返し激励をする言葉を耳にしながら、1人、2人、3人と次々と息を引き取った。・・・
                               (式次第から抜粋)

想像に絶する苦しみの中、信仰を告白するということはそこまでのことなのだと心の中で頭が下がる思いでした。

ミサ ミサ   
ミサ ミサ

朗読の後、川に向かって黙祷がささげられました。深々と頭を下げ、祈る人びとの姿にジーンとくるものを感じました。殉教というものがどれほどのものかわからないものの、なにか心の奥深くに存在しておられる方との響き合いを感じたのでした。思わずシャッターをきる手も震えてしまいました。

黙祷の後、マタイによる福音の山上の説教の「幸い」の箇所が朗読されました。続いて氏家神父の「殉教者メッセージ」、撒水と献香、仙塩地区各教会代表者による共同祈願、主催者代表のあいさつで終了しました。

おだやかな陽ざしの中、平和のうちに式は終了しました。今年は陽がさすとてもいいお天気に恵まれ、多くの方が「今年は暖かいね、いつもは風が強く、雪も降ったりなのに……」と、話しておられました。

警察の力と防衛費が大きくなっている今の日本、江戸時代、戦時中での迫害などは、遠い昔のことではないのかもしれません。ずっしりとした思いをいだきながら1日を終えました。

また、ペトロ岐部と187殉教者列福に向けて準備をしている日本の教会の歩みの中で今日の日は? と問いかける日でした。

キリシタン殉教碑が設置されている場所は近々地下鉄工事の資材置き場となるそうで、来年からはどこで、どのようにこの殉教祭が開かれるかは、まだわかっていないようです。

「キリシタンゆかりの地を訪ねて」というページをいずれ準備し、各地をご紹介できたらと思っていますので、楽しみにしていてください。

▲ページのトップへ