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米川キリシタンまつり

2008/06/24

宮城県登米市米川綱木地区(とめし よねかわ つなき ちく)は、岩手県との県境に位置し、岩手県側の藤沢町大籠とともに「キリシタンの里」として有名です。大籠には、キリシタン殉教公園があり、中には資料館などがあります。米川では、毎年、「キリシタンの里まつり」を行っています。これは、教会関係者のみならず、町の人々と一緒に、毎年6月の第1日曜日に行われるもので、周辺の町の人々が総出で、「キリシタンの里まつり」祝うユニークなお祭りです。

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キリシタン里まつりの
のぼり
記念碑 ミサ会場への坂道

6月1日、前日から雨が降り、当日の天気予報も「雨」ということで、山の上で行われる米川キリシタンの里まつりは、主催するカトリック米川教会と町の方々は大変心配なさったそうですが、幸いによい天気に恵まれ、関係者の方々は一安心。

「キリシタンの里まつり」そのものは、綱木農村公園で、午前10時から始まっているのですが、祭り中の祭りであるミサは、そばの山の上にある三経塚(さんきょうづか)前の広場で、午前11時から始められました。

米川キリシタンまつり 米川キリシタンまつり

主司式は、仙台教区の平賀徹夫司教様、ともにミサをささげるのは、米川教会の司牧者である横島師、この3月まで米川教会で司牧をなさっていた会津師、かつて米川教会で司牧なさったことがある土井勝吾師。大船渡、気仙沼、一関、仙台市内の教会などから約150名が参加し、「米川キリシタンの里まつり」のミサが始まりました。信者でない人々もミサに参加し、熱心に祈りをささげました。

説教で、平賀司教は、まず第一声「皆さん、今、あなた方が座っているこの大地は、わたしたちの先達であるキリシタンたちが血を流して殉教し、埋葬されているところです」と話し始められると、一瞬木々の葉ずれの音も、鳥の鳴き声も止まり、シーンと静まりかえりました。

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説教する平賀司教 献花

「殉教されたキリシタンたちは、キリストへの信仰をしっかり持っていました。第一に大切にすべきものは、キリストへの信仰・愛・希望だと確信していました。そして、それを自分のいのちをささげることで、証ししました。わたしたちは、何を第一にしていますか? 自分のいのちさえ捨ててもいいものとして、何を持っているのでしょうか」と話され、ミサ後、参加者は、「胸にジーンと来ました。これからは、もっと信仰のことを考えていきたいです」と感想を語っていました。

岩手県との県境に近い米川で、享保年間(1716-1735年)、120人のキリシタンたちがその信仰ゆえに殉教しました。

伊達藩の鉱山から掘り出される鉄は、当時の製法からすれば、大変純度の高い、よい鉄が精錬されていたため、鉄砲や弾のために、いろいろな藩からの求めに応じて売られ、伊達藩の一つの財源となっていました。これは、製鉄の方法を知っているキリシタンが、南の方からやって来て、製鉄の方法を教え、広まったものだと言われています。

鉱山での仕事は、大変厳しいものでしたが、そこでは身元改めが行われないため、全国からキリシタンたちがやって来て、身を隠していました。しかし、享保年間に入り、山の中まで探索の手が伸び、120人のキリシタンたちが捉えられ、殉教しました。

その殉教の場は三経塚に登る途中、「切捨場霊場」(きりすてば れいじょう)と言われるところです。ここは、桐の木場屋敷の人々が代々、密かに子孫に伝え、大切に供養してきた場所でした。しかし、この家の人々が北海道に移住する際、隣家の親戚の人に伝えたところから、この場所が明らかにされたものです。「桐の木場」は、「切捨場」の言葉が転じたものと言われています。なお、この屋敷は、現在、公園内の「綱木親和会館」となっていますが、屋敷を壊したとき、司祭を隠す「隠し部屋」が出てきたそうです。たぶん、その屋敷に住んでいた人は、気づかないままだったでしょう。

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綱木親和会館 三経塚

三経塚は、切捨場で殉教した人々を40人ずつ3つの丘にお経とともに埋葬したもので、その場所をさしています。現在、ミサが行われているのは、「海無沢(かいなしざわ)の三経塚」で、原形をとどめている唯一の塚だと言われています。他の2つの沢は、「朴の沢(ほうのさわ)の三経塚」、「経の森(きょうのもり)の三経塚」と呼ばれています。

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切捨場 切捨場の説明

ミサ後、司教様から順にすべての人が、三経塚の上に立てられている十字架の前にお花をささげました。山から下り、町の人々と一緒に踊りや歌を楽しみ、夕方まで、和気藹々のうちに祭りが行われました。

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