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山本神父入門講座

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27. 三回目の受難予告と使徒たちの願望

師イエス

ペトロの信仰告白の後から、弟子たちとイエスの間はしっくりいっていない。マルコはその後の様子を伝えている。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(マルコ10章32節)。

受難と死が待つエルサレムへ行くのに、なぜイエスはこうも決然としていられるのか。弟子たちにはイエスが、ますます分からなくなったのではないか。そこへ追い撃ちをかけるようにイエスが言われた。「『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾(つば)をかけられる。彼らは人の子を、鞭(むち)打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。』十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」(ルカ18章31-34節)。 予告も三回目である。「イエスさま、いつまでも隠しておかないで、弟子たちに分からせてあげてください。」と祈りたくなる。


ルカも同じ気持ちなのか、この受難予告に続けて、イエスによる盲人の癒(いや)しについてのべる。イエスは死海のほとりエリコに近づかれた。道端で盲人が物乞いをしていた。「群衆が通って行くのを耳にして、『これはいったい何事ですか』と尋ねた。『ナザレのイエスのお通りだ』と知らせると、彼は、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐(あわ)れんでください』と叫んだ。先に行く人々が叱(しか)りつけて黙らせようとしたが、ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をしてほしいのか』盲人は、『主よ、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。』盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」(ルカ18章35-43節)。

この盲人はいやされた。そして、エリコでは徴税人の頭であったザアカイが、自分の家に泊まってくださったイエスに、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ19章8節)と言って回心を表明した。儲(もうけ)だけしか見えなかったザアカイの心の目が開かれたのである。


十二使徒はどうなったのか。マタイもマルコも受難予告と関連付けて、盲人のいやしについて書いているが、その他に、ルカが触れていない衝撃的なことも描いている。マルコによれば、受難予告のあとのこと、ゼベダイの兄弟ヤコボとヨハネがイエスに願った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」やはり彼らは、イエスを政治的、軍事的なメシアだと考えていたのだ。「イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』彼らが、『できます』と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしのきめることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。』ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」 (マルコ10章35-41節)。

「目から鱗 (うろこ) が落ちる」という言い方があるが、十二人の場合には、分厚い鱗が心の目を覆っている。言い争いを始めそうな十二人にイエスは言われた。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたはの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。」自分たちのなかで誰(だれ)がいちばん偉いのかを、絶えず気にしていた十二人とは全く逆の態度をイエスは示した。そして、自分もそのように生きているから、そのような生き方をしなければ、イエスの弟子にはなれないことを説明された。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」 (マルコ10章42-45節)。

ようやくイエスは受難と死が、ただの災難ではなく、イエスに神から与えられた、仕える者としての使命、すべての人の救いのために自分のいのちをささげることを弟子たちに示された。しかし、十二人はまだ、それをとらえ、それを受け入れる心境にはなっていなかった。


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