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山本神父入門講座

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30. イエスと罪人の赦し

イエス

またしてもファリサイ派絡みの話しである。ファリサイ派の人びとは、神に従うことは律法を厳しく守ることだと信じ、律法を守れない人びとは厳しく裁き、罪人・汚れた者と断定して交際しなかった。だから徴税人レビ (マタイ) がイエスの弟子になったときも、イエスと弟子たちが一緒に食事をしたのを非難した。

イエスは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5章31-32節)と言われた。また、エリコの町で徴税人ザアカイの家に泊まられた時も非難されたイエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19章9-10節) と言われた。ファリサイ派の人や律法学者は罪人の救いに関心がないのだろうか。いずれにせよ、この点では彼らとイエスのそれとの間には、際立った相違がある。


「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてくイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている。』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう

言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15章1-7節)。この「よい牧者」の話しで、捜し求める一頭と野原に残される九十九頭の開きに戸惑う人もある。しかし、イエスのお話は、1イコール99という数学の問題ではない。失われる一頭の重みが問題なのである。すべての人の救い主であるイエスにとっては、大ざっぱに大部分の人が救われればよいのではない。ファリサイ人や律法学者のように、律法を守っているかどうかだけを見ている心には、一頭が失われる痛みは分からない。

それでイエスは、より日常的な話しをされた。「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ15章8-10節)。むずかしい理屈はいらない。銀貨が無くなったのに、放っておく人はいない。


悪人の救いを考えるとき、問題の中心は赦しである。かわいそうだからという同情で、誰でも彼でも救う訳にはいかない。イエスは、「放蕩(ほうとう)息子のたとえ」(ルカ15章11-32節) を話されることで、自らその問題に踏み込まれた。

二人兄弟と父親のお話である。次男が自分のものになるはずの財産の分け前を要求し、もらったすべてを換金して、遠い国に行き、放蕩の限りを尽くし、財産を遣い果たしてしまった。ひどい飢饉(ききん)に襲われ、食べ物をくれる人はだれもいなくなった。その時、ようやく我に返った次男は言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」そして、彼はそこをたって父のもとへ出発した。父親は遠くから次男を見つけて、「憐(あわ)れに思い、走り寄って首を抱き、接吻(せっぷん)した。」息子が用意した口上を言うのも聞くや聞かずで、いちばんよい服、指輪、履物を身に着けさせ、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って祝宴を始めた。

その最中に長男が畑から帰って来た。しもべから一部始終を聞いた彼は、怒って家に入ろうとはせず、なだめに出てきた父に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは、一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、☆売春婦どもと一緒にあなたの身上 (しんしょう)を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠(ほふ)っておやりになる」。


長男の言い分はもっともだ。しかし、忠実な長男には、次男の悔い改め、改心、赦しの苦しい道のりは分からない。まして、背かれた父親の苦しみ、背いた子の改心、謝罪と赦しを与えることの喜びは想像もつかない。背かれても、赦す機会に備え、わびる子をちゅちょなく赦す父の姿に中に、イエスは、すべての人が改心して救われることを望む、神である父の姿を描いてくださった。

☆注:売春婦
 「娼婦(しょうふ)」を、Laudateで変更させていただきました。


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