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山本神父入門講座

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36. 最後の晩餐 2

最後の晩さん

「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」(ルカ22章14節) 時刻。過越(すぎこし)の晩餐(ばんさん)の時間になったというだけではない。ヨハネは書いている。「イエスはこの世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。(ヨハネ13章1節)」だからイエスは言われたのである。「苦しみを受ける前にあなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしはせつに願っていた。言っておくが、神の国で過越がなし遂げられるまで、わたしは決してこの過越をとることはない」(ルカ22章15-16節)。


イエスと十二使徒は、エジプトからの解放、モーセに率いられた荒れ野の旅、シナイ山での十戒(じゅっかい)の授与、神とイスラエルの契約の伝統のなかで生きてきた。過越の晩餐はそれらすべてを、記念し、思い起こさせ、それらの出来事のなかでイスラエルが受けた恵みを、過越を祝う人に与える儀式、儀式的な食事であった。

だから定められた式次第に則って行われた。イエスは定められた順序に従って行かれたが、ことばの端々に、御自分にとっても十二使徒にとってもこれが最後だと言うことを表された。
 「イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ふどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』」(ルカ22章17-18節)

神の国が来る。神の国で過越がなし遂げられる。このことばは、イエスが宣教を始めたときのことば、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節) を思い出させる。

その後のイエスの宣教活動は、祭司長、ファリサイ派の人々、律法学者たちとイエスの間に微妙な差のあること、イエスが、何か新しいことをなし遂げることを予感させてきた。その予感が、このささやかな、そして、イエスと十二使徒だけで行われたひそやかな晩餐の席で現実になろうとしていた。


式次第に定められた儀式は終わった。そこでイエスは式次第にはない、新しいことを始められた。

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂(さ)き、使徒たちにあたえて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」(ルカ22章19-20節) イエスは、過越の晩餐のために使われたパンとぶどう酒を、ただのパン、ぶどう酒から、「わたしの体」、「わたしの血」に変えられたのである。


パンといえば、「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いでそれらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ」て、五千人ほどの人に食べさせ満腹させた奇跡を行われたことがある(ルカ9章10-17節)。あの時、イエスは自分が持っておられた神の力を使ってあの奇跡を行われた。

今、最後の晩餐の席で、イエスはまたパンの上に、そして、ぶどう酒の上に不思議なことを行われた。今度の不思議なことは結果が目に見える奇跡ではない。見た目にも、触れる手にも、味わう口にも、パンでありぶどう酒であるものが、「あなたがたのために与えられるわたしの体」、「あなたがたのために流される、わたしの血」となったのである。

このような変化は、また、新しい意味を帯びている。「あなたがたのために与えられるわたしの体」と「あなたがたのために流されるわたしの血」は、イエスの死、十字架の死と、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として身分の命を献げるために来たのである」 (マルコ10章45節)というイエスのことばを思い出させる。イエスが三度繰り返し予告された、受難、十字架の死、復活は、とらえきれないほど大きく深いものである。

イエスは、それを記念するため、すなわち、思い起こし、ある意味ではそれを体験し、それによって与えられる恵みにあずかることができるために、パンとぶどう酒による儀式を定められたのである。過越の食事が出エジプトの記念であったように、この新しい儀式は、イエスの受難、十字架の死、復活を記念するものである。これを、初代教会は「パンを裂く式」と呼んでいた。現代の教会は聖餐式・ミサと呼んでいる。キリスト教では、これを奇跡とは呼ばず秘跡と呼んでいる。聖餐式・ミサは聖体の秘跡とも呼ばれている。秘跡については、また別の機会に説明させて頂きたい。


最後の晩さん

晩餐のなかでイエスは、ぶどう酒について、「わたしの血による新しい契約である」とも言われた。これは、荒れ野の旅の途中、シナイ山で行われた契約との比較である。

出エジプト記によると、神の十戒を受けたあと、「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。かれはイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」 (出エジプト記 24章3-8節)。


これが神とイスラエルの契約であるが、イエスの十字架の死と復活によって、シナイ山で結ばれた契約は破棄され、イエスの血によって新しい契約が結ばれたのである。そのことにイエスは触れられたのである。

このことから、シナイの契約は古い契約・「旧約」、イエスの血による契約が新しい契約・「新約」と呼ばれ、聖書も旧約聖書と新約聖書に分かれているのである。


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