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7.大村純忠の栄光と受難

結城 了悟(イエズス会 司祭)

長崎 紐差教会
長崎 紐差教会

ここで教会の歴史の流れを止めて、その当時の一人の優れたキリシタンに目を留めたい。
 ドン・バルトロメ大村純忠は、自分にあたえられた使命を果たそうと努めた人として、生存のときにも現代でも高く評価されているが、厳しく批判もされた。

有馬の大名晴純仙厳の次男として日野江城で生まれ、正室に子どもがなかった大村純前の養子となり、まだ若くして大村の大名となった。領地は狭く、前大名の側室から生まれた後藤貴明の敵意を受け、勢力の強い大名たちに囲まれて生き残るためには精神的な力と忍耐が必要であった。

ポルトガルとの貿易は経済的援助になったが、その収入を欲しがる他の殿から多々攻撃を受けた。その生涯での戦には横瀬浦で受けたキリストの教えが精神的な導きとなったが、同時にその信仰を守るため家来の一部からも反発を受けねばならなかった。

受洗してからまもなく、1563年に彼に出会ったルイス・デ・アルメイダのある手紙には、この最初のキリシタン大名の姿が生き生きと紹介されている。数ヵ月後、横瀬浦が破壊されたとき純忠は生き残るため多良岳に逃れ、そこで出家して理専と言う名前を取得した。このことである著者は、純忠がキリシタンの信仰を棄てて仏教に戻ったと言っているが、出家することは信仰を替えることではないし、当時、純忠は宣教師たちと連絡をとりあっていた。その後彼らは、純忠について話すとき理専と言う名前を使っている。その時代にイエズス会に入会した日本人も斎名(さいおん)を使い、会で認められた習慣であった。

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大村に戻った純忠は三城城を築き、1568年には城の側に大村市で最初の教会を造った。1574年、諫早殿と他の敵の攻めのとき有名な「三城の七騎士」の戦いの後、全領土で積極的に宣教の手助けをした。その活動では後に準管区長になった*1ガスパル・コエリヨ神父が不透明な態度をみせた。三城城にいる間、純忠は二つの出来事を永久に自分の名前と結んだ。すなわち、1570年の長崎開港と、1582年の天正少年使節の派遣である。

翌年、龍造寺隆信の圧迫に耐え、コエリヨ神父の無理な注文に応じなかったので、神父のいかりを受けた。体が次第に弱り、息子たちを敵の手に人質として渡し、坂口に引退させられたが、さらにその信仰はますます輝いていた。コエリヨ神父が、見舞いに来るようによばれても断ったとき、純忠は、それを自分の罪の償いとして謙遜に受けた。

喉頭癌のような激痛に耐えるため、キリストの受難の朗読を聞いて支えられていた。1587年5月の穏やかな日であった。死期が近いとわかって他の仕事の話を断り、親友であった年老いたイルマン・ニコラオの話だけを聞いていた。最後に鳥籠の小鳥を自由にするように頼み、静かに亡くなった。信仰も領地も、家族をも無事に守りぬき、その領地の中で長崎は日本の教会の首府のようになっていた。


注釈:

*1 ガスパル・コエリヨ神父[1530ごろ-1590]
 イエズス会初代日本準管区長。
 ポルトガルに生まれる。1556年ゴアでイエズス会に入会する。1560年ごろ司祭叙階。
 1571年マカオに渡り、1572年来日。大村で宣教活動にあたり、領民を集団改宗に導いた。
 1581年日本準管区長となる。1590年に加津佐で亡くなるまで、準管区長を務めた。

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