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日本キリシタン物語
11.長崎の誕生
長崎 神ノ島
キリシタン史を考える時、必然的に長崎にゆっくりと目を留めなければならない。
長崎はある意味でキリシタン史の結果とそのまとまりであって、全日本の歴史と文化に多大な影響を及ぼした。この町とその国際的な港の計画は、横瀬浦の焼け跡と口之津の大泊の小さな教会で行われた対話から始まる。1567年の夏にその場所で話し合った2人の人物は、大村純忠と年老いたコスメ・デ・トーレス神父であった。
その年の7月には、トリスタン・バス・デ・ベイガの貿易船が福田港に入港しないで、口之津港に碇(いかり)を降ろした。有馬義貞にとってこのことは待ち望んでいた夢の実現のようであったが、ドン・バルトロメ大村の方からみたら大きな打撃になった。従って純忠は口之津まで馬を走らせトーレス神父と共に問題点を考えた。その話し合いの結果ポルトガルとの貿易のための新しい港の姿が浮かんできた。
最初の動きは、トーレスの方からであった。秋の終わりころ、イルマン・ルイス・デ・アルメイダを長崎甚左衛門純影の城下町におくることにした。ベルナルド長崎は純忠の娘と結婚していて、すでにキリシタンであった。快くアルメイダを迎え、住居として桜馬場の自分の屋敷に近い小さな寺院を与えた。そこからアルメイダは宣教を始めた。トーレスの次の動きは、1568年福田の教会にいたヴィレラ神父を長崎に移した。そこでヴィレラはアルメイダに与えられた寺院を改築して「トードス・オス・サントス」(諸聖人)教会を、建築した。その名は、関白秀吉の禁教令と徳川の長い弾圧にも屈せず、甚左衛門の屋敷の裏山の名前として当て字で「唐渡山」と呼ばれて残った。
ついに1570年の夏、ポルトガル船2隻が西海の海岸に向かった。マノエル・トラバソス船長の舟が福田に入港し、もう1隻の小さな船が富岡の袋港に停泊した。その船で来日した新しい布教長フランシスコ・カブラルはそこで宣教師会議を開き、その会議ではトーレスと大村純忠の計画が採用された。トラバソス船長は秋にはマカオに戻るので、その前に*1フィゲイレド神父と共に長崎湾の中で新しい港の位置を定め、1571年の春、大村の役人たちは純忠が与えた土地に長崎で最初の六ヶ町をつくった。
トーレスはこの機会を得て、すでに迫害の結果として故郷から追放されたキリシタンたちの拠り所を準備するため純忠に土地の提供を依頼していた。純忠は喜んで竹藪と松林に覆われた湾に突き出た岬に土地を与え、信者たちに土地と家が準備された。彼らの地方の呼び名によって六ヶ町は、島原町、平戸町、横瀬浦町、文知町、大村町、外浦町と呼ばれた。このように長崎はキリストの愛の教えに従って誕生したのだった。1571年7月ころ、トリスタン・バス・デ・ベイガのナウ船が新しい港に入った。その時から長崎港は、鎖国時代にも拘わらず海の彼方の国々の存在の証し人であった。
- *1 フィゲイレド神父[1528ごろ-1597.7.3]
- イエズス会司祭。
ゴア生まれの、ポルトガル人。
1554年にテルナーテ島でイエズス会に入会。1558年まで、モルッカ諸島で宣教し、その後ゴアで修練長や院長を務めた。
1564年に来日。口之津、島原、府内、大村、五島、博多で活躍した。
1579年に府内のコレジョに移り、コレジョの院長を務めた。
健康に恵まれず、1587年にゴアに戻り、同地で死去した。