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日本キリシタン物語

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14.キリシタン大名の奥方

結城 了悟(イエズス会 司祭)

26聖人記念館 ステンドグラス
26聖人記念館 ステンドグラス

キリシタン大名について物語るとき、彼らの家族や主だった家臣のことを忘れてはいけない。特に彼らの奥方は、もっと落ち着いて信仰生活をおくることができたし、豊臣秀吉の時代には、権力者たちは彼女たちに迷惑をかけなかった。徳川家康は、女性たちの信仰と社会的な力を見抜き、ときには敵意をあらわにした。ここでは数人の奥方を紹介したい。

大村純忠の娘*1メンシアは、12歳のとき松浦久信の嫁として平戸に送られた。メンシアは父ドン・バルトロメウから教えられた信仰によって支えられて、老大名松浦隆信と舅(しゅうと)鎮信、夫久信と息子隆信壱岐守の時代には一人で信仰を守り続けて、キリシタンであった数多くの家来のより所となり、息子と娘に洗礼を授けた。迫害者鎮信が死亡すると、平戸で殉教が廃止になるように努めた。
 66歳のとき徳川家光の命令で江戸に呼ばれ、松浦家の菩提寺であった広徳寺に監禁され、そこで1657年に死亡した。平戸のカトリック教会の裏にある正宗寺の墓地に、メンシア松東院の巨大な墓が、あの孤独な女性の70年間の英雄的な戦いを物語っている。

浅井長政の姉で京極高吉室は、1580年安土でイルマン・ロレンソからイエスの教えを習い、主人と娘マグダレナと共に受洗し、*2マリア京極としてキリシタン史では知られている。夫に先立たれたマリアは、英知に恵まれ意志が強く、京都の教会で優れた人物となった。その影響を受けて、大名であった二人の息子高知と高次はキリシタンになった。
 1605年、朽木宣綱と結婚していたマグダレナの葬式をきっかけとして、徳川家康はマリアを京都から追放した。丹後の国で領地を所有していた息子高知のもとへ退き、そこで祈りの生活を送り、1618年76歳で亡くなった。

26聖人記念館 マリア像
26聖人記念館 マリア像

大友宗麟の娘マセンシアもキリスト信者として、また良き妻、母としての模範を立派に残した。夫は福岡県の久留米の大名毛利秀包で、洗礼を受けたばかりのとき豊臣秀吉の禁教令のため外面的に信仰をやめたが、マセンシアはその信仰がよみがえるように導き、子どもたちが洗礼を受けるようにした。
 秀吉が死去すると久留米に教会が建てた。関ケ原の合戦の後毛利輝元に預けられ、山口県の殿居村で信仰生活を続け、子どもたちの信仰も守っていた。マセンシアの墓は毛利家の一つの菩提寺であった殿居に近く、神上寺の山の森の中の淋しい所にそびえ、今日でもマセンシアの立派な信仰を伝えている。

1599年に有馬晴信と結婚したジュスタ菊亭は幸せな家庭をきずき、5人の子どもに恵まれたが、晴信が徳川家康の命令で処刑されるとき最期まで彼のそばにいて、その後3人の娘と一緒に京都に戻り、立派な信者であった秋月(福岡県)の大名黒田惣右衛門の未亡人と一緒に生活し、ときにはその家が、迫害された宣教師たちのより所になった。


注釈:

*1 大村メンシア[1574-1657]
 キリシタン。大村純忠の娘。
 1587年に、松浦久信に嫁して、平戸に行き、5人の子どものうち4人に洗礼を受けさせて、信仰のもとに育てた。
 キリシタンを保護し、1630年幕府によって江戸下谷の広徳寺に隠棲させられ、そこで亡くなった。
*2 マリア京極[1542ごろ-1618.2.28]
 キリシタン。俗名不詳。浅井久政の娘。長政の姉。
 京極高吉の妻。1581年、イエズス会安土住院で、高吉とともにオルガンティノから受洗。
 次女龍子(豊臣秀吉の側室)をのぞく子どもたちにも受洗させ、大坂の布教に助力した。
 その後、長男 高次の領国若狭に退き、若狭や丹後の田辺(次男・高知の領国)で布教したといわれる。
 晩年は、若狭の泉源寺で暮らし、ここで亡くなった。

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