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16.天正少年使節 [1582~1590]

結城 了悟(イエズス会 司祭)

天正少年使節
天正少年使節

4人の主人公は少年であった。選出されたとき*1有馬セミナリヨで勉強していた。その中の3人は父親を戦で亡くした人々であった。ヴァリニャーノ神父が安土で織田信長に出会い、五畿内の教会の発展をみた後その計画を考えた。九州の3人のキリシタン大名、大友義鎮、*2有馬晴信と大村純忠はそれを引き受け、彼らの名のもとに執り行われた。

少年たちに重大な任務が負わされる。ヨーロッパでは日本の文化を紹介し、その新しい教会の発展を示すことであった。帰国してから日本人には、ヨーロッパとそこの教会の光栄をみせるはずであった。旅の途中にはディエゴ・デ・メスキータ神父の指導のもとに一致団結して、長い海路の疲れ、病気の苦しみ、新しい文化との出合いを乗り越えて、文句なしに使命を果たした。スペインの国王フェリペ2世、イタリアの公爵たち、2人のローマ法王、ローマの議会、ベニスの大統領、あるいはポルトガルの有名なコインブラ大学の学生たちに対して、皆の人気を得て見事に振る舞った。

帰国する際、日本の形勢が変わっていた。織田信長が殺害され、大友宗麟と大村純忠が他界していて、政権を握る豊臣秀吉は禁教令を出していた。それにも拘わらずヴァリニャーノを伴って秀吉に謁見して日本での務めが始まったが、あの謁見のとき彼らの道が道が分かれ始める。伊東マンショは秀吉に仕えることを丁重に断り、千々石ミゲルは家族について尋ねられたとき返答に困っていた。4人ともイエズス会に入会し、原マルチノは仲間よりはやく勉強に進み、公の仕事では相手が加藤清正であっても、また徳川家康であっても巧く成功していく。中浦ジュリアンは熱心に仕事に打ち込む。

中浦ジュリアンと伊東マンショ(長崎・26聖人記念館)
中浦ジュリアンと伊東マンショ
(長崎・26聖人記念館)

千々石ミゲルは病気になり勉強が思うようにはかどらないのでイエズス会を退会して、従兄の大村喜前に仕え、大名が信仰をやめたとき彼に従い、後で不和になり有馬に移り、そこで家来から疵を受けて長崎に行き、そこでその足跡が消える。

伊東マンショは小倉、山口と故郷の日向で立派な活躍をしているとき徳川家康の迫害が始まり、小倉から追放されてそのときの苦しみの結果病気になり、1612年長崎のコレジヨで帰天した。

使節団のインテリであった原マルチノは長崎のコレジヨで文化的な活躍をした後、1614年マカオに追放され、そこで1629年に亡くなるまで司祭として活躍した。

中浦ジュリアンは禁教令のとき潜伏し、口之津の主任司祭となって18年間島原半島、天草、肥後と筑後で活発に宣教を続けた。ついに小倉で捕らえられ長崎のクルス町の牢屋に10ヶ月間監禁されたが、背教の勧めに打ち勝った。1633年10月21日、西坂で穴吊りの責めに命を捧げた。「私はローマへ行った中浦神父です」「この大きな苦しみは神の愛のため」と、彼の最後の言葉として記録されている。彼らの文化的、宗教的なインパクトが当時大きかったが、現在までその国際協力の影響も残っている。ジュリアン中浦の故郷長崎県西海町中浦には、彼の誕生の地に小さな公園が出来ていて、その中央に建てられた展望台の上に中浦ジュリアンのブロンズ像が皆に向かって「ローマへの道」を示している。


注釈:

*1 有馬セミナリヨ
 1579年、口之津協議会での、都と下の地区にセミナリオ設立の決定により、翌年有馬晴信の援助で島原半島北有馬の日野江城下に開校した。ヨーロッパの教育制度にならった、キリスト教的理念のもとに教育を行う中等教育機関。東西の文化の調和を目指し、ラテン語、ヨーロッパ古典、日本語、日本古典を学ばせた。
 1587年の豊臣秀吉の禁教令発布によって、長崎に移った安土セミナリオと合併した。迫害によって、八良尾、加津佐、有馬、長崎などに移動し、1614年の追放令で閉鎖された。
*2 有馬晴信[1561ごろ-1612.6.5]
 肥前有馬のキリシタン大名。有馬義貞の息子で、兄義純の死去に伴い有馬家の家督を相続し、日野江城に住んだ。義貞の時代から、有馬の力は衰えていたが、竜造寺氏からの脅威が増し謀叛を起こす家臣も出た。1580年3月、巡察師ヴァリニャーノから洗礼を受け、ヴァリニャーノの食料、武器、弾薬の援助によって危機を脱した。
 1587年の豊臣秀吉の禁教令以後、イエズス会士を自領にかくまった。1609年、長崎港でポルトガル船を攻撃し爆沈させた。その後、岡本大八の奸計にかかり、1612年甲斐預けとなり、キリシタンとして斬首された。

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