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19. 26聖人(2) 長崎への道

結城 了悟(イエズス会 司祭)

トマス小崎
トマス小崎

日本の文化では「道」、ドウと言う言葉に深い意味がある。ひとつは歩く道のことで、もうひとつは旅人を支える理想。キリスト教では、イエスは十字架を担ってローマ総督の官邸からカルバリヨ山に至るまで歩いた道を十字架の道と言う。2世紀のアンティオキア(シリア)の司教イグナチオは、その町からローマまで信仰のため処刑されるために縛られて連行された時、その道の意義についてもすばらしい記録を残した。

26聖人も十字架が待っている長崎に向かって歩いた道が記録されていて、感動的な出来事が多く、殉教者が書いた手紙も残っている。西坂の殉教地に建っている記念碑の裏に、今井兼次先生が自然石を使って制作したその道のシンボルには短い言葉をもって主な事実を述べている。「我が道に神がいらっしやる」。ペトロ・バプチスタ、パウロ三木、青年ボナペントゥラ、あるいは*1トマス小崎が書いた手紙の翻訳が私たちに残されていて、その表現を裏付けている。

殉教者が堺から大坂に戻ったのは、1597年1月9日であった。翌日、長崎へ向かって出発した。山陽道を通って下関まで行き、そこから小倉まで小舟で渡り、小倉からまた陸路をとり志賀島には1月30日に着いた。翌日、また小舟に乗って肥前名護屋城に行くため出発したが、海が荒れていて博多港に入港した。2月1日、博多から唐津に向かいその城下町には立ち寄らず山本村のあたりで川を渡り、そこで殉教者を世に送り出す役目をになった寺沢半三郎に手渡された。山本から武雄、嬉野を通って2月4日午後、彼杵に着いた。その日の夕方、大村湾を横切って時津の浜に11時ごろ着き、舟に乗せられたままその夜を明かした。5日の朝、殉教地西坂に向かって歩を進め、午前11時ごろ目的地に入った。

前に述べたようにその道中殉教者が書いた手紙には、彼らの心が映されている。パウロ三木は、喜びと自信を表す。ペトロ・バプチスタは自分の責任のもとにあったフランシスコ会の活躍についての心遣いや、また、キリストのため生命をささげたいという愛の心と、京都に残された信者への思いによって試されていた。

長崎・中町教会 日本26聖人 三少年像
長崎・中町教会 日本26聖人 三少年像

永井隆が詩った「ルドビコさまは12歳 耳をそがれて縛られて 歩む千キロ雪の道」。彼は、生き生きとした喜びをもって皆を驚かせた。背教のかわりに自由を勧めた寺沢半三郎に「そのような条件であるなら天国に行くほうがましです」と答えた。安芸の三原城の牢屋から母に宛てた手紙では、トマス小崎はキリシタン史の1つの宝石である1ページを残した。「長崎で処刑されるためそこへ向かう神父と私たちは先頭に挙げた宣告文のとおりに24人です……私と父上ミゲルのことについてはご安心下さいますように。天国で近いうちにお会いできると思います。現世ははかないものですから」。三原城のあたりで26人になった列が祈りながら進んで行く。ときにはレオ烏丸、パウロ三木や他の者が説教をする。「この長い道程で1日も説教をしない日はなかった」とパウロ三木は長崎に着いた時友人に打ち明けた。

彼らは時津の浜の舟の中で、縛られて最後の夜を過ごした。厳しい寒さによる眠れぬ夜。祈りの夜。


注釈:

*1 トマス小崎[1583-1597.2.5]
 日本26聖人のひとり。伊勢出身。
 父は、同じく日本26聖人のひとりミゲル小崎。母も二人の兄弟も信者であった。
 京都教会建築ので大工の手伝いをしていた時、修道院で同宿として育てられることとなった。1596年12月9日、京都の修道院で捕らえられた。長崎への道で、三原城から母に宛てた手紙が、フロイスによって翻訳され『二十六聖人殉教録』に載せられている。

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