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22.京都の大殉教、1619年10月6日

結城 了悟(イエズス会 司祭)

正面河原にある京都の大殉教の碑
正面河原にある京都の大殉教の碑

1614年の禁教令の2年前に、すでに徳川家康は京都の教会に重い手をかけていた。  まず第1に上京の教会が閉鎖され、「都の比丘尼」と呼ばれた修道女たち、*1ジュリア内藤、メンシア大友、*2マリア伊賀などが公に苦しめられた。1613年信者の名簿が作られ、1614年の禁教令が発布されるとジュリア内藤たちはマニラに追放されるため長崎に送られた。同時に、73名の主だった信者が津軽に流配された。

大坂の夏と冬の戦が終わり、1616年に家康が死去するとキリシタンの問題をある程度まで忘れられるようになった。しかしそのころ、都の教会は悲惨な姿を見せていた。1618年、フランシスコ会の*3ファン・デ・サンタ・マルタが当地で殉教し、それをきっかけに数人の信者も牢に入れられた。

京都の所司代板倉勝重(1542~1624)は、平穏なころから宣教師と友であったので、できるだけ流血がないように努め、牢内の信者を静かに自由にしていた。

しかし、将軍が9月に伏見に滞在した折、京都の牢にまだキリシタンがいると聞き激怒した。そして、牢内の信者だけではなく自由にされた信者もみんな殺すように命令した。また、将軍自身、処刑の方法を細部にいたるまで決めた。

京都に残った信者はほとんどの者がデウス町と呼ばれたところに住んでいた。彼らは、貧しい人々やあるいは津軽に流配された人の家族であった。彼らの他に京都に分散した数人の信者もいた。その中では、*4ジョアン橋本太兵衛とその家族が目立っていた。彼もその妻テクラも京都の古い信者で、5人の子どもも信者として育てられていた。

当時、京都には2人のイエズス会の宣教師*5結城神父とペント・フェルナンデス神父が、同宿のミゲル・ソアンと潜伏していた。彼らは、牢内の信者を援助して、信徒たちの引き回しの時にはミゲル・ソアンは群衆の1人として彼らと共に歩いた。処刑の後、宣教師はできるかぎり殉教者たちの遺体を埋葬し、その殉教の記録を書いた。そして数年後、彼らもみな殉教を遂げた。

1619年1月6日、所司代の役人がデウス町に行って、信者を集め信仰を棄てるように勧めた。その時大人たちの間からマルタと呼ばれる7歳の女の子が進み出て、高い声で「私は信仰を棄てません。信仰を棄てるものは天国に行きません」と叫んだ。驚いた役人は話を続けることができず退いた。

祈る聖母マリアの絵

信者はみな牢に送る込まれた。そこでマルタは眼病を患い盲目になり、それでも牢から出されることを拒み母と一緒に殉教まで頑張った。牢屋の苦しい生活が続き、夏になると数人が亡くなった。ついに10月6日、信者たちは牢から出され牛車に乗せられて、見せしめのため京都で引き回された。マルタの母ルフィナは牛車にひざまずいて祈り続け、その傍らで小さなマルタは母の着物を握って立っていた。

正面河原の加茂川の辺りには、丁寧に作られた52本の十字架が立っていた。その間には、薪がたくさん積んであった。準備が長引き、火が付けられた時はすでに夕暮れになっていた。

大きな炎が京都の空を赤く染め、その光は遠くから見ることができた。将軍にあいさつするのために日本各地から集まっていた大勢の人々も、京都の民と共に殉教を見に行き、驚きをもってあの大きな奉献を眺めていた。その中の1人で平戸のイギリス商館のリチャード・クークスは、数日後友人への手紙に「殉教者の中には、母の腕に抱かれた小さな子どもたちがいて、その母たちは「『イエス様、この子どもの魂を引き受けてください』と叫んでいた」と書き送っている。

52名の殉教者のうち、大人42名、子どもらは10名であった。日本の教会の殉教史における幼子の殉教であった。
 この殉教の様子は京都から離れた遠方にまで伝えられ、水戸の徳川の記録にも記されている。


注釈:

*1 ジュリア内藤[1566ごろ-1627.3.28]
 ベアタス会創立者。内藤如安の妹。源左衛門の子として生まれる。
 丹波の身分の高い家に嫁ぐが、22歳のころ夫と死別し、京都で比丘尼となる。
 イエズス会修道士からキリストの教えを聞き、20年近い比丘尼の生活を捨て、1596年にオルガンティノ神父から受洗。熱心に福音を伝えた。阿弥陀像を焼いたことを、徳川家康に訴えられ、長崎に逃れる。
 1603年、京都に戻り、日本で最初の修道会ベアタス会を創立。1614年の大追放で、他の修道女たちと共にマニラに追放され、マニラのサン・ミゲル村で修道生活を送り、同地で亡くなった。
*2 マリア伊賀[生年不詳-1639.10.8]
 日本最初の修道会ベアタス会の創立に参与した5人の中の1人。創立者ジュリア内藤に導かれて受洗。
 「伊賀の殿の娘」という記録があり、筒井定次の娘とする説もあるが不詳。
 1614年の大追放で、ジュリア内藤と共にマニラに追放され、マニラのサン・ミゲル村で修道生活を全うした。
*3 ファン・デ・サンタ・マルタ[1578-1618.8.16]
 日本205福者殉教者の1人。フランシスコ会士。
 スペインのカタルーニャのプラダスに生まれる。
 幼少のころからラテン語やグレゴリオ聖歌をサラゴーダの司教座聖堂付属学校で学ぶ。後に、若年でザモラの司教座聖堂歌隊の次席指揮者となった。
 ザモラにあるフランシスコ会に入会し、司祭叙階後、1605年にフィリピンに派遣される。
 1607年来日。伏見地区の宣教を委され、同時に天使の聖母修道院院長も務めた。
 厳しい修道生活を送りながら、教会音楽の普及に努めた。また仏教各派の経典を研究し『仏教駁論』を著した。
 1614年の宣教師追放令の時収容されたが、船から脱出して再潜入し、有馬や大村で宣教活動を続けた。特に、最も危険な獄中訪問を繰り返し行った。
 1615年、背教した有馬義貞によって捕らえられ京都に送られ、京都の牢獄では同囚の改宗に専念し、多くの人を信仰に導き、ひそかに斬首されて殉教した。
*4 ジョアン橋本太兵衛[生年不詳-1619.10.6]
 京都の殉教者。桔梗屋と称した。
 スペインに残る1617年9月10日付で京都キリシタン代表が連署した書状には「橋本太兵衛如庵」とあり、ハビアンの『破提宇子』には、京都の有名なキリシタンとして「桔梗屋ジュアン」の名があり、同一人物と思われる。
 親の代からの熱心なキリシタンで、デウス町で家族と共に信心生活を送っていた。
 1619年、所司代板倉勝重によって、正面河原で52名が一斉に焚刑に処せられた時、家族と共に殉教した。
*5 結城(ディエゴ)神父[1574-1636]
 殉教者。阿波出身のイエズス会士。
 足利義種の家来だったが、1586年に大坂のセミナリヨに入り、生月、八良尾、加津佐、有馬と転じ、1595年10月4日河内浦の修練院に入る。1601年にマカオに留学し、1604年に帰国。有馬のセミナリヨでラテン語を教え、1607年からは伏見の教会で活躍する。
 1614年に追放され、翌年にマニラで司祭叙階。1616年に日本に潜入し、京都、伏見、江戸、北国で布教活動を行い、1636年大坂で逆さ吊りの刑により殉教。

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