home > 時・歴史 > 日本キリシタン物語 > 25.雲仙という美しい祭壇

日本キリシタン物語

バックナンバー

25.雲仙という美しい祭壇

結城 了悟(イエズス会 司祭)

長崎・中町教会 マリア像
長崎・中町教会 マリア像

米沢教会の証(あかし)の2年前に、有馬教会もその篤い信仰を告白した。雲仙という火山列のきびしい自然が、島原半島の信者たちの奉献の祭壇となった。いろいろな歴史的出来事を見ると、この有馬の教会が日本で最も深い信仰を育てられた教会であったと思われる。そこにはセミナリヨ、コレジヨ、修練院などが置かれ、豊臣秀吉の禁教令の後、宣教師のほとんどがここで信者たちを司牧している。30年の間、有馬の教会は、キリシタンである大名と領民は親密に結ばれてその信仰生活に与っていた。迫害のとき、ここは殉教の証という大きな信仰の収穫を得ることとなった。

有馬家に続いてこの地を治めた三河の勇ましい武士*1松倉豊後守重政は、最初は信仰の理由で領民の生活を乱すことはなかった。宣教師たちが潜伏していると分かっても、素知らぬふりをしていた。彼は遠いマニラを夢見て、居城森岳城の建築を進めることであった。重政が不在のとき、領内でナバロ神父が捕らえられたときには、神父を紳士的にもてなし、マカオに追放するように将軍に頼みさえした。しかし、秀忠はその願いを聞き入れなかった。再び重政が不在であったとき、家来たちが今度は他の宣教師たちを捕らえた。次の将軍家光は、重政を1年間江戸に滞在させて戒めた。有馬に戻った重政は、全く別人になっていた。

すでに有馬では宣教師の姿が見られなくなっていたが、町や村では庄屋たちが神父の代わりに信者を守り励まし、また、宣教師が訪れるたびに宿を与えていた。そこで、重政の怒りは彼らに向けられた。主だった信者たちを、以前友人として付き合っていた人さえも牢に入れ、1627年2月21日、森岳城の外濠に集合させるよう命令した。まず第1に、島原の代表的な信者であった*2パウロ内堀の3人の息子を父の面前で拷問し、その後他の数人の信者とともに有明海の冷たい海中に沈めた。

重政は濠に戻り、パウロ内堀たちの両手の指3本を切り落として額に焼印を押した。その後、彼らは自由にされたが、領内からは出ることを許されなかった。さらに、宣教師たちに宿を与えないように命令がくだされた。信者たちは素直に従ったが、山小屋を作って祈りと宣教の生活を続けた。

重政は、最後の手段として雲仙の地獄口の責めを考えた。2月28日、パウロ内堀他16名が雲仙に送られ、当日の夕方までその地で拷問を受けて、硫黄が沸き立つ湯の池に落とされた。最後に投げられたパウロ内堀は「御聖体は賛美されますように」という祈りをもって信仰を全うした。

キリシタンのロザリオ
キリシタンのロザリオ

2番日の殉教者の組は10名で、同年5月17日に雲仙に登った。彼らの中には庄屋などが含まれていたので、重政は殺す前に彼らが取り扱っていた財政の報告を書くように命令した。彼らは傷だらけの手で静かに筆を執り、忠実に務めを果たした後、雲仙で拷問を受け殺された。

雲仙の殉教者の中には、パウロ内堀、ルイス林田など、1620年に教皇パウロ5世宛に書いた手紙の署名者がいる。手紙には次の言葉が見られる。「ガラサ(恩恵)を以て、キリストとローマのサンタ・エケレジヤ(教会)の御證據に、身命を捧げ奉らむと、燃え立つばかり存じ奉り候。」

雲仙に登る途中峰助太夫は、皆の心を代表して現在の「俵石」展望台付近で別れの詩を書いた。  「はるかなるパライソを身近に今ぞ見き この喜びに心高鳴る」。


注釈:

*1 松倉豊後守重政[生年不詳-1630.2.19]
 江戸初期の大名。筒井定次に仕えた。
 関ヶ原の合戦と1614-15年の“大坂の陣”で功績をあげ、1616年に肥前国高来郡(旧 有馬晴信領)に移封された。1618年から7年を費やして島原城とその城下町を建設した。
 長崎奉行に協力して、有馬時代に教勢を拡大した領内のキリシタンの弾圧に努めた。さらに、ルソン遠征まで企てたが間もなく死亡した。
*2 パウロ内堀[生年不詳-1627.2.28]
 内堀作右衛門。雲仙地獄の最初の殉教者の中心人物。
 キリシタン絶滅の厳命を受けた島原藩主松倉重政によって迫害を受け、妻子共に投獄された。3人の子どもは拷問のうえ、有明海に沈められ、自らも額に烙印を押され釈放された。しかし、その後も信者のために活動したため、捕らえられ雲仙の硫黄の中に投げ込まれ殉教した。

NEXT

▲ページのトップへ