home > 時・歴史 > 日本キリシタン物語 > 27.出島と鎖国
日本キリシタン物語
27.最後のキリシタン乙名の証
マリア観音
出島は、現在島ではない。現在は、観光施設で、ある程度まで限られた形で長崎の歴史の一時代を物語る場所である。
二人制となった最初の奉行曽我と今村の時代、1633年に多くの宣教師がこの地で殺された。あとを継いで奉行となった*1榊原飛騨守が、1634年、家光から江戸町の海岸前に出島の築造を命じられた。その築造には長崎の有力な商人25名に出費させ、工事が始まると長崎市中に散らばって住んでいたポルトガル人は1カ所に集められ、夜中にはその通りの門が閉じられていた。
出島を造ることを考えた徳川家光の目的は、長崎に来航する外国の商人や船乗りの「収容所」ではなかった。家光の計画にはいろいろの目的があった。第1はキリシタン宗門を完全に根絶やしにするため、次にこれと関係のあった外国との接触を断ち切るため、さらに貿易を幕府の支配下に置き、外様大名の力を弱めるためであった。また徳川幕府を支える政策に支障をきたす考えを阻止するためでもあった。出島は鎖国の道具とそのシンボルになるはずであった。
1636年築造が完成すると、簡素な長屋に長崎に住んでいたすべてのポルトガル人を移した。まだ「出島」という名はなかった。そこに収容されたポルトガル人の記録によると彼らは、そこを「O Entulho (埋め立て地)」と呼んでいた。一口に言えば、「格子なき牢獄」であった。
彼らは、そこの家賃を支払わなければならなかった。同じ1636年の夏に、ドン・ゴンザロ・シルヴェイラの4隻の船が長崎港に錨を降ろすと、乗組員は1人残らず出島に入れられた。そればかりか、秋に船が出港する前に、長崎の女性とポルトガル人との間の混血児282名が出島に集められ、その船でマカオに送られた。出島の築造を命じた時、すでに家光は日本人とポルトガル人との結婚を非難していた。
天使の像(長崎・平戸教会)
ポルトガル人は出島で1639年まで貿易を続けていた。その最後の3年間にマカオから入港した船の船長たちは、それぞれの船が出航する時長崎に残され、1639年にヴァスコ・バーリャ・デ・アルメイダの船が戻る時に全員がその船で追放された。そして、もし日本に戻ることがあれば、処刑されるであろうと宣告された。
しかし、マカオにとって突然の貿易停止はその町の衰退を意味するので、マカオの議会レアル・セナードは長い議論のすえに、平和の使節団を派遣することにした。4名の有力市民が選ばれ、武器も商品も携えず、ただ貿易の継続を願い出るために派遣されたが、船が長崎港に入ると捕らえられ早馬で江戸に送られた。幕府はその知らせに死刑の決定で答えた。
- *1 榊原飛騨守[1586-1648.10.17]
- 榊原職直(もとなお)。長崎奉行。飛騨守。
花房職之の次男。11歳の時、榊原康政の取り次ぎにより徳川家康に会い榊原姓を名乗り、関ヶ原の戦い、大阪の陣に従軍した。上総国山辺郡2500石を与えられた。1632年従5位飛騨守叙任。1634-1638年長崎奉行として宗門改および鎖国令の実施にあたった。島原の乱には軍監として参加し、1638年5月、職直の子、職信が鍋島勢と共に城内に突入して幕府軍の総攻撃の口火を切ったが、軍令違反で戦後閉門となる。翌年許されて、1642年御先鉄砲頭、1646年近江水口城番となった。