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日本キリシタン物語

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30.信徒発見

結城 了悟(イエズス会 司祭)

信徒発見のマリア像(長崎・国宝大浦天主堂内)
信徒発見のマリア像(長崎・国宝大浦天主堂内)

国宝大浦天主堂の右祭壇に、フランスから送られた優しい聖母マリア像がある。聖母に抱かれた御子イエスは両腕を開いて、人々を招いているようである。

今から140年前の話であるが、その歴史はキリシタンの潜伏がはじまる1614年から流れてくる。キリシタンになることを禁じるローマのネロ皇帝の言葉を繰り返した徳川家康とその後継者は、次第に迫害の厳しさを強めて、その目的を果たそうとした。

宣教師がいなくなり、彼らと密接な関係にあったポルトガル人とスペイン人にとって、日本の港が閉じられた。国は鎖国令を出し、だんだん少なくなるキリシタンの子孫は、それでも信仰を守り続けていた。

彼らの信仰は、はっきりした希望によって支えられていた。1660年ころに殉教した「バスティアンさま」という日本人の伝道士が、死ぬ前に次の言葉で信者を励ました。「今から7世代が経つと、バテレンさまが戻り、大きな声で公然と祈りが唱えられるようになる」と言った。彼杵半島の信者は樫山の赤岳から、岩屋山から浦上の信者は三山の峰から、犬継の信者は、ローマに向かって祈り、海を眺めていた。自宅の奥に隠された無原罪の聖母の大きなメダイや「雪のサンタ・マリア」の美しい掛け軸、あるいは白磁の子安観音像が信徒の傷ついた心を慰め、バスティアンの予言が実現されるという希望を照らしていた。

幕末の日々には、アメリカ、ロシア、イギリス、フランスの船が日本の海岸に近づいていた。琉球列島は1609年まで独立国であったが、その年以来、徳川家康の指示に従って薩摩の支配下に置かれ、その状態は明治期まで続いた。幕末ころにフランスの軍艦が時には那覇に入港し、琉球と関係していた。その機会をとらえてパリ外国宣教会のアウグスティン・フォルカード神父は、1844年に那覇に入り、寺に泊まりながら日本語を勉強していた。

その便りがローマに届くと、1846年に教皇グレゴリオ16世は、「琉球と日本の代牧区」を設立し、フォルカードをその初代司教として任命した。フォルカード神父は、司教として叙階されるために那覇を出た。その後1859年に*1プチジャン神父が那覇に入り、そこから1862年に日本に渡って、その後長崎に派遣された。その指導のもとに、フューレ神父とジラル神父の設計によって大浦に天主堂が建てられた、1865年2月19日に献堂式が行われた。潜伏キリシタンが待ち続けた出来事のためにすべてが整っていた。

信徒発見(長崎・国宝大浦天主堂 前の庭)
信徒発見(長崎・国宝大浦天主堂 前の庭)

この天主堂は、1865年3月17日、二十六聖人にささげられたフランス寺と呼ばれていた。この新しい天主堂で、プチジャン神父と、浦上から確かめにやって来た数人のキリシタンとの歴史的な出会いが行われた。

「聖母の御像はどこ?」とイサペリナゆりの問いかけに答えてプチジャンは、聖母の御像の前に案内する。「あぁっ、ほんとうにサンタ・マリアさまだ、御子イエスを抱いていらっしゃる」。「あなたがたはだれですか」、「浦上の者、あなたと同じ心をもっています…」。

その簡単な対話が、251年間の禁教令と迫害、鎖国に終わりを告げる。まだその主人公たちは、今までのようにさまざまな苦しみを耐えなければならないだろうが、バスティアンの予言が全うされていた。彼が死んでから、ちょうど7世代目であった。

彼らはもう一度祭壇に近づいて祈った。はじめは静かな声で、だんだんと歌声となって古い祈りがささげられた。「あわれみの御母、元后にてまします御身に御礼なし奉る…。流人なるエワの子供、御身へ叫びをなし奉る。この涙の谷にてうめき、泣きて御身に願いをかけ奉る」。

祭壇の上でマリアの御像が御子を示し、イエスの開かれた御腕が人々を招いていた。


注釈:

*1 プチジャン神父[1829.6.14-1884.10.7]
 パリ外国宣教会の宣教師。フランスに生まれる。
 1854年司祭叙階。1859年パリ外国宣教会に入会。1860年日本宣教を命じられ、沖縄に上陸。1862年11月に横浜、1863年7月に長崎に移る。大浦天主堂の建築に協力。
 1865年1月より、長崎奉行の語学所で、フランス語を教授。同年2月19日大浦天主堂の献堂後、3月17日に歴史的なキリシタン復活(浦上信徒の信仰表明)を体験。彼らへの教理指導に没頭した。
 1867年7月に浦上四番崩れが起こり、事件報告と援助を求めてローマに赴き、教皇に訴願した。ローマ滞在中に、日本二十六聖人殉教の油絵(大浦天主堂蔵)を画家に依頼した。また、『ドチリナ・キリシタン』ほか日本関係文書を筆写した。ドロ神父と共に日本に戻ったが、すでに114名の信徒が流罪となっていた。1869年5月、第1回バチカン公会議出席のためローマに渡った。そこで浦上信徒3000余名の逮捕の報を聞き帰日しようとしたが許されず、12月になって帰日、信徒の釈放のために奔走した。
 1880年に長崎に戻り、1884年同地で死去。大浦天主堂に埋葬された。
 神学校の開設、「プチジャン版」と呼ばれる宗教書の刊行など多くの業績を残した。

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