教会カレンダー
主の奉献
第1朗読 マラキ書 3章1~4節
または、ヘブライ人への手紙 2章14~18節
福音朗読 ルカによる福音書 2章22~40節
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
第1朗読 マラキ書 3章1~4節
見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は
突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者
見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。
だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。
彼の現れるとき、誰が耐えうるか。
彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。
彼は精錬する者、銀を清める者として座しレビの子らを清め金や銀のように彼らの汚れを除く。
彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。
そのとき、ユダとエルサレムの献げ物は遠い昔の日々に過ぎ去った年月にそうであったように主にとって好ましいものとなる。
または、ヘブライ人への手紙 2章14~18節
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。
それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
福音朗読 ルカによる福音書 2章22~40節
さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。
非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、
夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、
そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
2月2日は、主の奉献の祝日です。
主の奉献の祝日は、イエスが生まれて40日後に、律法に従い、幼子イエスが両親に連れられてはじめてエルサレムに行き、神殿で神にささげられたことを記念します。
この祝日は、エルサレムでは5世紀に、ローマでは7世紀に祝われるようになりました。10世紀に西方典礼では、この祝日は「マリアの清めの祝日」として祝われてきました。1960年の典礼刷新で、東方教会の伝統にそって再び「主の奉献の祝日」となりました。
この日は、また「世界奉献生活の日」でもあります。共に祈りましょう。
* * * * * *
第1朗読では、「マラキ書」が読まれます。
「マラキ書」は、イスラエルが独立を失った捕囚(ほしゅう)以後の時代、紀元前5世紀の初頭に書かれました。エルサレム神殿完成後のエズラとネヘミヤの時代に、宗教儀礼の清浄化と律法遵守をイスラエルの民に訴えた言葉が「マラキ書」です。
神殿再建がもたらした興奮も消え、失望が民の心をむしばんでいた時に、預言者マラキが、祭司をはじめ民の心を神に立ち返らせようとして語った言葉が書かれています。
民の不信に対する神からの答えは、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」です。神が「使者」を送って、神のために「道を備えさせる」のです。救いの日の訪れは近く、神殿を浄める方が来ると、マラキは約束するのです。
その日、使者の来る日は、「誰が身を支えうるか。……誰が耐えうるか」という試練の日になります。
マラキが、主が突如来られる日について、切迫した調子で語っているのに心がとまります。みなさんはどう感じられますか?
この契約の使者とは、だれでしょう。
民の待望に神が最終的に答えられるのは、キリストご自身をとおしてなのです。
* * * * * *
選択として読むことのできるヘブライ人への手紙は、手紙というよりも、かなり発展した原始教会の中で、キリスト教に改宗したヘブライ人にあてた説教、または神学論文と言われる書です。
ヘブライ人への手紙の冒頭には、あいさつはなく、「神は、かつて預言者たちによって、多くの形で、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」とはじまります。著者は、私たちの受けた啓示は旧約時代とつながっているものであると同時に、御子イエスによる啓示が 完全な啓示であることを示しています。
私たち人間が、恐れることはなんでしょうか。
天災、事故、貧乏、権力、火災……などいろいろあるでしょうが、その中で一番恐れられているのは、死ではないでしょうか。だれでも死の恐れから解放されたいと願います。
今日朗読する箇所は、人間の根本的な願いに答えて、罪と死を滅ぼすために来られたキリストのみなぎる力が述べられています。
* * * * * *
今日の福音の冒頭は、幼子イエスを連れたヨセフとマリアが、エルサレムに上京した事、しかもこの上京は、主の律法を満たすためであることが書かれています。
イスラエルでは、律法により男の子を出産した女性は40日目に清めの式を行うことになっていました。また、人も家畜も初子はすべて神のもので、神に奉献することになっていました。
このためにヨセフとマリアは、律法の規定を守り、清めの期間が終わると、初子をささげるためにエルサレムに行き、神殿で不思議な出会い、シメオンと、アンナとの出会いをしたのです。
シメオンは神の救い(イエス)を腕に抱いて、まず神をほめたたえて歌い(29~32節)、そして両親を祝福して歌い(34~35節)ます。
シメオンが抱いたイエスは、「異邦人を照らす啓示の光」ですが、だれでも悟れるわけではありません。この光に背を向ける人にとってイエスは「反対を受けるしるし」、滅びの原因なのです。
イエスの誕生によって開始された「今」こそ、私たち一人ひとりにとって決断の時なのです。
今日の福音は、またイエスを受け入れるイスラエルの共同体がはじめて登場しています。それは、主の律法を守って幼子をささげるヨセフとマリアを受け入れる共同体です。その出会いは神殿の中で、賛美をとおして行われます。
「教会の祈り」の寝る前の祈りでは、このシメオンが歌った祈りを祈ります。
救いを待ち望んだ者が受けた恵み(イエス)の喜びを表現した祈り、神との交わりの祈りです。これはまた、アンナの祈りでもあったのです。今日は、ゆっくりとこの言葉を自らのうちに受け止めながら祈ってみてはいかがでしょうか。
祈り
全能永遠の神よ、
御ひとり子は人となられ、きょう神殿にささげられました。
わたしたちも聖霊の光に従い、罪のやみを捨て、
みずからをあなたにささげることができますように。
集会祈願より
▲ページのトップへ