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聖人カレンダー

7月の聖人

1日 聖シメオン・サルス

?-590年ごろ

 シメオンは、パレスチナのシナイの砂漠で苦業の生活を29年間送ったが、故郷のホムスに帰り、社会から見捨てられて差別を受けている人びととともに生活をした。彼のモットーは、「真に謙遜になりたければ、屈辱を愛さなければならない」ということであった。それで彼は、わざと人びとから罵られるような振る舞いをし、「サールス(狂気)」とあだ名をつけられた。ある人びとは、彼を偽善者と言い、他の人びとは予言者と信じていた。しかし、時とともに彼の真意が理解され、彼を聖なる人として認めるようになった。



1日 ペトロ岐部と187殉教者

17世紀

 ペトロ岐部と187殉教者は、1603年から1639年にかけて殉教した日本人である。日本各地を代表しており、社会的立場も司祭、武士、商人、家族、女性、障がいのある人、子どもと多岐にわたっている。188人のうち、司祭が4人、修道者1人、他の183人は信徒であり、徳川幕府時代の厳しい迫害にもかかわらず、いのちをささげることによって信仰を証しした。

 地域別にみて、人数が多いのは京都のヨハネ橋本太兵衛をはじめとする52名と、米沢のルイス甘糟右衛門ら53名である。

 また、生月の西一家、京都の橋本一家、加賀山・小笠原一族、島原の内堀一家は、家族が信仰のきずなで結ばれ、励まし合い、支えあって殉教していった。

 188名の中で代表的な人物は、イエズス会の司祭、ペトロ岐部である。1587年、豊後に生まれた彼は、有馬にあるイエズス会のセミナリオに入ったが、1614年、禁教令によってマカオへ追放された。マカオでの養成が困難であったためローマへ出発し、そこで司祭となったが、帰路についたとき日本では迫害の嵐が吹き荒れていた。1639年、彼は江戸で逆さつるしの刑に処せられ、殉教した。

 殉教者たちの信仰と愛を称えて、2008年11月24日、長崎市においてペトロ岐部と187殉教者の列福式が行われた。日本の教会が、殉教者の血から生まれ、その上に立てられたことを思い起こし、現代社会の中で教会が自信と活気に満ちあふれて、福音を宣べ伝えるきっかけとなった。死をとおして、イエスの愛にならった彼らの証は、どんなときもイエスの価値観を選び、それを証しすることの大切さを、わたしたちに教えてくれる。



2日 聖クリストフォロ

3世紀ごろ

 クリストフォロは、レプローブスという名であったといわれる。カナンの上流家庭に生まれ、ローマ皇帝デキウスの迫害のときに殉教したと伝えられている。大男で、とても力持ちであった彼は、世界で一番強い王に仕えることを望み、その王に出会えることを待ちながら、旅人を背負って川を渡る仕事をしていた。そしてある暴風雨の夜、子どもの姿をしたキリストを肩に乗せて川を渡り、真の王とは誰かを悟ったのだった。このときから、クリストフォロス(ギリシャ語で「キリストを背負う者」という意味)の名を自分に付けた。

 12世紀ごろから、ドイツを中心に彼の伝説が広まり、クリストフォロが描かれた画を見た者は安全に暮らせる、とまでいわれた。彼は、旅行者や航海者、現代では自動車の運転者の保護の聖人として知られている。



3日 聖トマ使徒

1世紀

 イエスの弟子であるトマは、「ディディモ」(双子の意)とも呼ばれている。トマは、イエスが復活して現われたと聞いたとき、イエスの傷痕に自分で指を入れてみるまでは決して信じないと言った。そのため、「疑い深いトマ」として知られている。しかし、イエスが再び使徒たちに現われて彼もそこに居合わせたとき、「わたしの主よ、わたしの神よ」と自らの疑い深さに気づき、イエスからも「見ないで信じる者は幸いである」と諭された。  その後、トマはインドに宣教に行き、マイラポールで殉教したと伝えられている。インドの信者たちは自分たちを「聖トマのキリスト信者」と呼ぶことが多いそうである。



4日 聖エリザベト(ポルトガル)皇后

1271年-1336年

 エリザベトは、スペインのアラゴニア王ペトロ3世の娘として生まれ、12歳のときに、ポルトガル王デニスと結婚した。

 皇后となったエリザベトは、法律の制定や孤児の救済に力を尽くした。
 国王の女性問題から宮廷を追放されたが、王が病気になって死にゆくときには、今までの仕打ちを赦し、自ら王の看病に当たった。王が死去したのち、彼女はフランシスコ第三会に入った。コインブラに修道院を創立して、そのそばの小屋で祈りと黙想に専念し、修道女たちの世話をしながら生涯をささげた。



5日 聖アントニオ・マリア・ザカリア司祭

1502年-1539年

 アントニオは、イタリアのクレモナで生まれた。パドバの大学で医学を学び、医師となった彼は、肉体的な病ばかりでなく、司祭となって精神的に苦しむ人びとをも導き助けたいと思った。

 司祭になってからのアントニオは人びとの救いのために働き、1530年、同じ志をもった数人の司祭とともに、使徒パウロを模範とする修道会「聖パウロの律修聖職者会」を創立した。この会は、活動の拠点となった聖バルナバ教会にちなんで「バルナバ修道会」と呼ばれ、人びとの魂の救済に力を尽くした。

   神の命令は難しく、骨が折れるように見えるが、愛があれば容易になる。
   道はけわしく、進んで行く気力がないときでも、勇気をふるって進むとき、
   栄光に達することができる     (聖アントニオ)



6日 聖マリア・ゴレッティおとめ殉教者

1890年-1902年

 マリア・ゴレッティは、イタリアのアンコーナの信仰深い農夫の娘として生まれた。10歳のときに父を失ったので、母が畑仕事に出かける一方、マリアは家事仕事や兄弟たちの世話をして手伝った。
 隣家の息子アレッサンドロは、マリアによからぬ思いを抱き、彼女の母の留守をねらってはマリアを誘惑したが、彼女は抵抗し続けた。しかし、彼女が12歳のときに、アレッサンドロは短剣をもってマリアをおどした。マリアは「それは罪です」と言って抵抗したので、ついに彼女を刺してしまった。翌日彼女は、「彼を赦してやってくださいね。いつか、天国でまた会いたいわ」と言い残して息をひきとった。アレッサンドロは逃亡していたが、まもなく捕えられた。

 29年後に監獄から出所し、彼女の母に赦しを願いに行った。母は、娘の言葉どおり彼を迎えいれ、赦し、ともにマリアのために教会でミサをささげたのであった。その後、彼はカプチン会の修道院に入り、庭師としてその生涯を罪の償いのためにささげた。

 マリア・ゴレッティは、キリスト教的生活(貞潔)の殉教者として尊ばれている。



7日 聖キュリロス/聖メトディオス

827年ごろ-869年/815年ごろ-885年

 両聖人は兄弟であり、東ローマ帝国の官吏の息子としてギリシャのテサロニケ(現サロニカ)に生まれた。当時、ここは東ローマ帝国の重要な貿易港として栄えていた。2人はスラブ人の文化に触れ、それを身につけ、のちに首都コンスタンチノープルにも遊学した。キュリロスは哲学、神学に優れ、宮廷付司祭となった。メトディオスは、官職についたが、のちに修道院に入った。

 862年、東ローマ皇帝ミカエル3世は、モラヴィアの国王の要請に応じて、兄弟を宣教師としてモラヴィアに派遣した。2人は流暢なスラブ語で説教をし、文字も書物もなかったこの地にスラブ語の文字を新たに作り、聖書をスラブ語に翻訳するなど、宣教活動によって改革していった。こうしてスラブ族の大半は、キリスト教徒になった。2人はローマに招かれ、教皇から祝福を受けたが、キュリロスはとつぜん大病にかかり、42歳で亡くなった。

 メトディオスはモラヴィアに戻り、宣教活動を続けるが、東フランクの聖職者の反感を買い、投獄された。しかし教皇の尽力によって873年に釈放され、その後も、スラブ教会のために聖書の翻訳や、聖職者の養成に力を注いだ。兄弟は「スラブ族の使徒」と呼ばれている。



8日 聖プロコピオス

?-303年

 プロコピオスは、エルサレムに生まれた彼は、シリア語が堪能で、聖書に精通していたので、教会での様々な奉仕を行った。自らは、厳しい生活を送り、水とパンだけで暮らしていたといわれる。
 人柄は、謙遜で誠実であり、人びとから尊敬を受けた。

 皇帝ディオクレチアヌスの迫害時代、カイザリアに宣教に行き、そこで捕えられた。皇帝から、神々にいけにえをささげるように命じられたが、彼は「何人もの主人に仕えるのはよくない。一人の主、一人の王あるのみ」といって信仰を貫きとおし、処刑された。

 この出来事は、パレスチナ地方での迫害の最初の年で、プロコピオスは当地最初の殉教者であったと伝えられる。



9日 聖ヴェロニカ・ジュリアーニ修道女

1660年-1727年

 ヴェロニカは、イタリアのメルカテロの裕福な家庭に生まれた。幼いときから修道院に入ることを望み、17歳のときクララ会に入り、ヴェロニカという名前をもらい、祈りと黙想の生活に励んだ。

 1697年の聖金曜日に、彼女がイエスの苦しみを黙想しているときに、キリストと同じ傷跡を両手、脇腹、両足に受けた。そのため、人びとの好奇心や疑惑の的になり、司教からも人前に出ることを禁じられた。しかし、彼女の冷静で明朗な生活は、疑惑を晴らし、真正さを認めさせることとなった。

 その後、修道院長に選ばれ、生涯をささげた。彼女が書いた日記は44巻にもなり、貴重な神秘思想の文献とされている。



9日 聖アウグスチノ・チャオ・ロン司祭と同志殉教者

17-20世紀

 彼らは1648年から1930年にかけて、中国で殉教した人びとであり、120人に及ぶ。そのうち、87人は中国で生まれた中国人で、子ども、両親、カテキスタ、労働者、教区司祭であり、年齢は9歳から72歳だった。また、33人は外国人で、ドミニコ会、パリ・ミッション会、フランシスコ会、イエズス会、サレジオ会の司祭、またマリアの宣教者フランシスコ修道会の修道女であった。

 アウグスチノ・チャオ・ロンはもともと兵士で、パリ・ミッション会のジョン・ガブリエル・タウリン・デュフレース司教が殉教する際、同行した。デュフレース司教の忍耐に心打たれ、自らもキリストに従うことを望んで、洗礼を受けた。その後、彼は神学校に入り司祭に叙階されたが、1815年に捕らえられ、激しい拷問を受けて殉教した。

 また中国では、1898年から1900年にかけて「義和団の乱」が起こり、欧米列強国に対する抵抗運動として、キリスト教が排斥されていった。120人のうちの多くが、この時期信仰を守るために命をささげた。

 彼らは、キリストへの信仰という深いきずなによって外国人宣教師たちと一致し、文化や民族が違っても一つの家族として、政治的な動機ではなく、兄弟愛、平和、正義のために、死んでいった。

 列福は数回にわたって行われたが、2000年10月1日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって120人が列聖された。



10日 ゴルクムの聖殉教者

16世紀

 当時、オランダでは宗教改革のさ中に、多くのカトリック信者が弾圧を受け、殺された。このとき、ゴルクム市では、4人の司祭、修道士を含む19名が捕えられ、ひどい拷問ののちに処刑された。

 彼らの遺体はのちにブリュッセルに移され、彼らは「ゴルクムの聖殉教者」と呼ばれ、人びとから崇敬されるようになった。



11日 聖ベネディクト

480年ごろ-547年

聖ベネディクト

 ベネディクトは、イタリアのヌルシアに生まれ、ローマで勉学をしたが、20歳のころ、スビアコに身を退けた。そこで隠修士ロマヌスに出会い、修道士となって、洞くつで厳しい禁欲生活を送った。ベネディクトの名声は高まり、彼に倣おうと多くの青年が集まったので、近くに12の修道院を建てた。

 529年、彼は数名の修道士を伴い、モンテ・カッシーノに修道院を建てた。それは教会で最も有名な修道院となった。また彼は、修道士のために修道生活の規則「ベネディクト会則」を書いた。祈り、生き方などについて分かりやすく述べられており、しかも人の心に響くものであった。

 ベネディクト会則は、修道生活の制度の基礎を築き、西方修道院制の歴史で重要な役割を果たすものとなった。



12日 聖ヨハネ・グアルベルト

995年ごろ-1073年

 ヨハネは、イタリアのフィレンツェの貴族の家に生まれ、何不自由なく育った。
 ある日、貴族同士のいざこざで兄が殺され、ヨハネは復讐を決意してその機会を狙っていた。とうとうチャンスが訪れたが、相手の懇願に胸を打たれ、赦したのであった。

 そして、彼は生涯を神にささげようと、ドミニコ会の修道院に入り、修行に専心した。より簡素な生活を求め、聖ロムアルドが創立したカマルドリ会でしばらく生活したのち、ヴァンブローサの山奥にこもって修行した。彼の徳を慕って集まって来る人びとのために、1038年に修道院を創立。聖ベネディクトの会則に基づいた生活を送り、貧しい人びとや病人の世話をし、また訪れる客を快くもてなした。



13日 聖ハインリッヒ

972年-1024年

 ハインリッヒ2世は、ドイツのレーゲンスブルクに、バイエルン侯ハインリッヒの子として生まれ、幼少のころから、王侯の義務、権限、神への畏敬などを学んだ。

 1002年に、従弟のドイツ皇帝オットー3世のあとを継いで皇帝となってからは、教会の改革に力を注ぎ、聖堂や修道院をドイツのあちこちに建てた。特にバンベルクに建てた司教座は、教育・文化・宣教の中心となり、国家は繁栄した。彼は、理想的なキリスト教の君主として知られている。



14日 聖カミロ(レリス)司祭

1550年-1614年

聖カミロ(レリス)司祭

 カミロは、イタリアのナポリの貴族の家に生まれた。18歳のとき軍隊生活に入り、そこで、足に傷を受け、さらに賭博によって全財産を失った。足の傷は生涯彼を悩ますこととなる。

 25歳になって回心し、カプチン会の修道院に入ったが、傷がひどくなったので会をやめた。

 その後、ローマの病院に行き、病人を看護する決心をした。
 彼の回心に影響を与えたフィリポ・ネリのすすめを受け、神学を学び、司祭となって、2人の同志とともに「病人のしもべたち」という修道会を創立した。「病人のよいしもべは、病院で死ぬ」と彼がいっていたように、生涯を病人のためにささげた。彼の創立した会は、「聖カミロ修道会」として全世界に広まった。彼は病院・病人の保護者と呼ばれている。



15日 聖ボナベントゥラ司教教会博士

1217年-1274年

 ボナべントゥラは、イタリアの貴族の家に生まれた。
 幼いころ、重病にかかった彼を、両親はアシジの聖フランシスコのもとに連れて行き、もし病気が治ったならば修道会にささげるという願をかけた。彼は全快し、25歳のときにフランシスコ会に入った。

 パリで神学を学んだのち司祭となり、多くの書物を著わした。
 35歳の若さで会の総長に、53歳でアルバノの枢機卿に任命された。

 彼は学識が高く、地位も高かったが、とても謙遜であり、多くの人びとから尊敬された。友人トマス・アクィナスと並んで「スコラ学派の神学者」と称され、「セラフィム的博士」とも呼ばれる。



16日 カルメル山の聖母

カルメル山の聖母

 カルメル山は、イスラエル北部の地中海沿岸を南東に走る、長さ24km、最高峰524mの丘陵である。その美しさは聖書の中でしばしば語られ、神の祝福の象徴として用いられるようになった(雅歌7.6、イザヤ35.2、エレミヤ50.19、列王上18.17-40、列王下2.25 参照)。

 十字軍の時代、キリスト教徒の隠遁者がこの山の洞窟で生活するようになった。13世紀に入ると、彼らは集まって一つの修道家族を作り、エルサレムの総大司教アルベルトが与えた会則を受け入れて、カルメル会が発足した。

 カルメル山からはガリラヤの平原を見渡すことができ、マリアが生活したガリラヤの近くであることから、カルメル会は初めから観想者であるマリアの保護のもとに自分たちを置いた。16世紀の偉大なる2人の教会博士、カルメル会の改革者アビラの聖テレジアと十字架の聖ヨハネは、カルメル山登攀(とうはん)をボナベントゥラがいう「神に向かう道」のシンボルとした。わたしたちは、聖母マリアの祈りに支えられて、神秘の山、キリストに近づくことができるのである。



16日 聖マリア・マグダレナ・ポステル修道女

1756年-1846年

 ポステルは、フランスのノルマンジーに生まれ、信仰心厚い両親のもとで育った。

 1774年に、教育を受けられない子どものために学校を開いた。
 フランス革命のときには、宗教活動が非合法化されたため、彼女は地下活動で教育事業を続け、司祭たちの援助も行った。

 1801年に再び教育事業が始められるようになったとき、彼女はこれを生涯の仕事とすることを決心した。同志を集めて教育を目的とする修道会を創立し、子どもたちに神を愛し、貧しい人びとを助けることを教えた。



17日 聖アレクシオ

?-430年ごろ

 アレクシオは、イタリアのローマの裕福な貴族の家に生まれ、何不自由なく育った。
 結婚も決まっていたが、神に生涯をささげたいとの思いから、式の当日に姿を消し、エデッサに行った。そこでは、自分の身分を明かさず、物乞いをしながら苦行の生活を送った。

 言い伝えによれば、アレクシオは17年後に両親の家に戻り、息子とは気づかれないまま、使用人として過ごしたという。彼が亡くなったとき、貧しい衣服の中から彼の本名と経歴が記された1枚の紙が見つかり、荘厳な葬儀が行われ、人びとから「神の人」と賛えられたといわれる。



18日 聖パンボ修道士

4世紀

 彼は、砂漠の教父たちの中でも最も偉大な教師の1人であった。
 あるとき、詩編39の第1節「わたしの道を守ろう。舌で過ちを犯さぬように」という言葉を聞いて以来、沈黙が彼の最も大きな徳となった。

 総司教から、感動すべきことをいうようにと頼まれたとき、「総司教がわたしの沈黙に感動されなければ、わたしの演説にも感動しないでしょう」と言った。

 また、彼は師父から習った「自分の正当さを信頼してはいけない。過ぎ去ったことを悲しんではならない」ということを心に納め実践した。砂漠の教父たちの生活実践と教えは、修道院制度の確立と発展の基礎を築いた。



20日 聖アポリナーリス司教殉教者

?-75年ごろ

 アポリナリスは、北イタリアのラヴェンナで宣教し、その地の最初の司教となった。
 彼は、多くの病人を癒し、奇跡を行ったといわれる。

 皇帝ネロの迫害の際に捕えられ、拷問を受けて追放され、その後殉教したと伝えられている。

 彼の遺体は、ラヴェンナの近くに建てられた聖アポリナリスのバジリカに埋葬され、9世紀に、聖マルティノ司教座聖堂に移された。この教会は新聖アポリナリス教会と呼ばれている。ビザンチン美術の代表的建築であり、そのモザイク画は世界的にも有名である。



21日 聖ラウレンチオ(プリンディジ)司祭教会博士

1559年-1619年

 ラウレンチオは、イタリアのプリンディジで生まれた。16歳のときにカプチン会の修道院に入り、パドバで神学を学び司祭となった。

 当時教会は、宗教改革で揺れ動いていた。教会を立て直すために、ドイツやボヘミアなどで説教し、バイエルン公やマキシミリアノ1世とともにカトリック政策を推進し、人びとの信仰を鼓舞した。また彼は、聖書解釈者としても有名であり、多くの著者を残した。



22日 聖マリア(マグダラ)

1世紀

聖マリア(マグダラ)

 エルサレムの裕福な家に生まれ、幼くして両親を失い、兄のラザロと姉のマルタといっしょに暮らしていたといわれる。
 自由奔放な生活をし、やがて7つの悪霊につかれて苦しみ、人びとから「罪の女」というレッテルをつけられて疎まれるようになった。

 そのときに、イエスと出会い、悪霊からも解放され、真の愛を知って回心し、徹底して信仰の道を歩んだ。復活したイエスが最初に現われたのは、このマリアにであり、彼女が他の弟子たちにイエスの復活を告げた。

 その後は、使徒たちの宣教活動を助けて、兄ラザロとともに南フランスに流され、隠遁生活のうちに生涯を送ったといわれる。



23日 聖ビルジッタ修道女

1303年ごろ-1373年

 ビルジッタは、スウェーデンの名門貴族の家に生まれ、敬虔に育てられた。結婚して、8人の子供を育て、その後国王マグヌス2世の皇后の女官になり、国王夫妻に良い影響を与えた。

 宮廷を去った後、シトー会の修道院に入り厳しい生活を送った。彼女は、幼いときから啓示を受けていたが、ますますはっきりしたものとなり、その体験を書いた著書「啓示」は、のちに多大なる影響を与えた。1346年に国王より土地を与えられ、ヴァズテナに修道会を創立した。

 1360年にローマに移り、不幸な人びとを助け、施設を設けたり、また教会の堕落を指摘するなど改革にも力を尽くした。スウェーデンの保護の聖人とされている。



24日 聖シャーベル・マクループ司祭

1828年-1898年

 シャーベル(幼名ヨセフ)は、1828年5月8日にレバノンに生まれた。
 彼は、3歳のときに父を失い、叔父にあずけられた。幼いころから隠遁(いんとん)生活の召命を感じ、14歳になると村はずれの洞くつに隠遁し、祈りに専念した。今日この場所は「聖なる洞くつ」と呼ばれている。当時は隠修士の生活には23歳にならなければ入ることができなかった。そのため、レバノンのマロニータ修道会の修練院に入ったのは、彼が23歳になった1851年であった。ここで、シャーベルは殉教者サルベルの名をもらい、1859年に司祭に叙階された。

 シャーベルは、1875年には隠遁生活を始める許可が与えられ、祈りと犠牲をもって、人びとが神にたちかえるように祈り続けた。

 1898年12月16日、ミサの最中に発作が起こり、8日間の苦しみの後24日に亡くなった。数カ月後、彼の墓が開かれたが、その遺体は腐敗していなかった。さらに1950年と1952年にも、彼の墓は開かれたが、彼の体は、生きているようだった。そしてシャーベルは、短時間に、600の奇跡をおこした。

 1965年12月5日、シャーベルはパウロ6世によって、第二バチカン公会議の教父たち全員の前で列福された。そして、パウロ6世は、彼を1977年10月9日、列聖した。



25日 聖大ヤコブ使徒

1世紀

聖大ヤコブ使徒

 イエスの12使徒のひとりであるヤコブは、ガリラヤの漁師の家に生まれた。福音史家ヨハネとは兄弟である。彼が、大ヤコブと呼ばれるのは、使徒の中で最初の殉教者であり、イエスのいとこにあたる小ヤコブと区別するためである。彼は、パレスチナの王ヘロデ・アグリッパのキリスト教迫害の際に捕えられ、斬首された。

 ヤコブは、スペインの守護の使徒と呼ばれているが、それは、遺体がスペインに運ばれたからだと伝えられている。数世紀にわたる迫害と民族移動によって不明となっていた墓は、813年に発見された。その場所は「コンポステラ」(星が現われて、聖人の墓の場所を示したという伝説による)と名づけられ、最も重要な巡礼地となリ、現在に至っている。



26日 聖マリアの両親 聖ヨアキムと聖アンナ

聖マリアの両親 聖ヨアキムと聖アンナ

 ヨアキムとアンナは、聖母マリアの両親と伝えられ、その生涯は、外典「ヤコブ原福音書」(2世紀)に述べられている。それによると、ヨアキムはナザレトで生まれ、アンナと結婚したが、長い間子どもに恵まれず、子どもが授かるように神に祈りをささげていた。アンナは40歳のころにマリアを産み、マリアを女性として申し分なく教育した。

 ヨアキムとアンナはイエスが誕生したときまで生きていたといわれる。アンナは、ブルターニュの守護の聖人とされている。レオナルド・ダ・ヴィンチによるアンナの聖画はルーブル美術館に保存されている。



27日 聖パンタレオン

?-305年ごろ

 パンタレオンは、ニコメディアのローマ貴族の家に生まれた。父の意思によって医学を学び、またある司祭との出会いからキリスト教について学び、洗礼を受けた。医者となってからは、人びとからも慕われ、評判が高まり、時の皇帝の宮廷づき医師となった。そして父の財産を継ぐと、それを貧しい人びとや病人、孤児などに与えた。

 ニコメディアでキリスト教の迫害が始まると、彼の名声をねたんでいた医師たちは、彼がキリスト信者であると訴えた。そのため、彼は残酷な拷問を受け、処刑された。パンタレオンは、その名(憐れみに満ちるという意)が示すとおり、医学と愛の行いによって多くの人びとを信仰に導いた。医師の守護の聖人とされている。



28日 聖ナザリオと聖チェルソ殉教者

2/4世紀ごろ

 キリスト教迫害が始まったころ、ナザリオとその妻は自らの危険を顧みず、熱心に宣教をしていたが、仲間の計らいによってローマから出ることができた。ゴールに逃れたときに、そこでチェルソという子どもの世話を頼まれた。ナザリオは、チェルソに洗礼を授け、その後ドイツで宣教をした。そしてミラノで捕えられ、処刑された。

 4世紀にミラノの司教聖アンブロジオは、彼ら殉教者の遺体を発見し、それをミラノの教会に移した。のちにこの教会はナザリウスの教会と呼ばれるようなった。



29日 聖マルタ

1世紀

 イエスの時代に、エルサレムの近くのベタニアに、兄弟であるマリアとラザロとともに住んでいた。彼女は、敬虔な生活を送っていた。

 聖書に「イエスはマルタとマリアと、ラザロを愛していた」(ヨハネ11.5)とあり、ラザロが死んだとき、マルタはイエスのもとに使いを送って、イエスへの信仰と信頼を表し、ラザロを生き返らせてもらった。その後もマルタはマリアとともにイエスに従った。



30日 聖ヨハネ・コルンビニ

1300年ごろ-1367年

 ヨハネ・コルンビニは、イタリアのシエナの貴族の家に生まれた。
 巨額の富を築いたが、貧しい人びとを少しも心にかけなかった。ある日、妻が持っていた「エジプトの聖マリア」の伝記を読んで感銘を受け、今までの自分の態度を深く反省した。彼は、財産を貧しい人に与え、病人を世話し、泊まるところのない旅人に宿を提供するようになった。そしてついにはすべての財産を人びとのために与えた。ヨハネの徳は広まり、多くの貴族が彼のもとに集まって指導を求めるようになったので、彼は共同生活を始め、修道会を創立した。

 会員はいつも人びとを訪問するときに「イエス・キリストが賛美されますように!」と祈っており、その会は「イエズアト会」と呼ばれるようになった。



30日 聖ペトロ・クリソロゴ司教教会博士

380年ごろ-451/485年

 聖ペトロ・クリソロゴ(金の言葉の意味)は、380年ごろ、イタリアのラヴェンナ(イモラ誕生ともいわれる)に生まれた。424年~431年の間にラベンナの司教に選ばれた。当時、この古い都は帝政時代の栄光期にあったが、その中で、ペトロ司教は牧者としての任務を忠実に果たし、また、優れた政治家でもあった。福音に基づいて生活へと導く彼の説教は有名で、その多くが今日まで伝わっている。そこには、同時代のアウグスチヌスのような雄弁も、レオ教皇のような神学もみられないが、彼の説得力と実生活に即した教えがあり、また飾り気がなく分かりやすい教えで、ラヴェンナの市民は高く評価していた。ペトロ司教は日ごろからこう言っていた。「民には民の言葉で話さなければならない。」

 ラヴェンナの年代史によると、ペトロ司教は451年から485年の間の7月31日に亡くなった。



31日 聖イグナチオ(ロヨラ)司祭

1491年ごろ-1556年

聖イグナチオ(ロヨラ)司祭

 イグナチオは、スペインのバスク地方の貴族ロヨラ家に生まれ、幼いころから騎士道精神を身に付け、名誉を求めることを価値としていた。1521年、戦場で負傷し、病床にあったイグナチオは、キリスト伝や聖人伝を読んで感銘を受けた。そしてすべてを捨ててキリストに従う決心をし、マンレサに退いて、祈りと苦行に専心した。このときの霊的体験が、有名な著書「霊操」を生みだした。それから、ローマとエルサレムに行き、ヨーロッパに戻りパリ大学で勉強をした。学友の中から6人の同志を集め、パリのモンマルトル聖堂で、「より大いなる神の栄光のために」、また「すべての人のために」働くことを誓って、「イエズス会」を創立した(1540年に正式に認可)。そのなかには、日本の最初の宣教師であるフランシスコ・ザビエルもいた。

 現在会員は、世界各地で、教育など多くの分野で活躍している。日本では、東京の上智大学をはじめ、鎌倉市、神戸市、広島市、福岡市などでの教育事業や、黙想指導、教会司牧、社会正義など、社会の中で人びとの必要のために働いている。



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