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第36回 イエスは天に上って、全能の、父である神の右に着かれた
第6項 「イエスは天に上って、全能の、父である神の右に着かれた」
イエス・キリストは復活され、婦人たちや使徒たち、そして多くの弟子たちに現れました。そのキリストの復活された体は、栄光化された体でした。ですから、戸を閉めていたのに、弟子たちの真ん中にお現れになることも、おできになったのです。それだけではなく、弟子たちと一緒に食事をしたり、神の国について話されたりなさいました。
復活後、イエスは40日間、私たち人間と共に留まられましたが、その間はイエスの栄光は、人間の目には覆い隠されていました。復活した後に出あったマグダラのマリアに、イエスは次のようにおっしゃいました。「わたしの父であり、あなたがたの父であるかた、またわたしの神であり、あなたがたの神であるかたのところへわたしは上る」(ヨハネ20.17)。その言葉のとおり、キリストは、天に上り、決定的に、神の栄光の中にお入りになり、神の右の座に着かれました。「神の右の座」とは、何を表しているのでしょうか。それは、「神としての栄光と誉れ」を表している言葉です。
このキリストの昇天と神の右の座に着かれたことは、キリストの受肉と密接なつながりがあります。それは、父のもとから出られた方だけが、父のもとにお帰りになることがおできになるからです。こうして、キリストは、自ら天に上られ、自分たちの力だけでは神のもとに行けない私たち人間を、父の家に迎え入れるために道を開いてくださったのです。
キリストが神の民である教会の頭として、私たちに先立って御父の栄光に入られたことは、その肢体である、私たち人間も、天の栄光に入ることができるという希望があるのです。イエス・キリストが、御父の右の座に着かれたことは、同時に、救い主メシアの治世が始まったことを意味しています。イエス・キリストは、神と人類との仲介者として、いつも執り成しをしてくださっているのです。
第7項 「生者と死者を裁くために来られます」
1 キリストは栄光のうちに再び来られる
◆キリストはすでに教会を通して治めておられる
イエス・キリストが、神の右の座に着かれたということは、イリストが「主」として、天においても、地においても、すべてを支配する力を持っておられることを意味しています。主であるキリストは、天に上げられ、栄光をお受けになった教会の頭ですから、地上の教会に聖霊を送り、教会のうちに留まり、教会を通して治めておられるのです。
教会は、神の民である私たち弱い人間の集まりですから、この地上では不完全さを持っています。しかし、同時に、キリストが教会に現存されることによって、真の聖性を表しているものでもあります。これは、不完全とはいえ、すでにこの世に現された「神の国・キリストのみ国」の到来を示しているものです。
◆……すべてがみ子に服従するときまで
キリストのみ国が教会のうちに、すでに現存しているとはいえ、この地上では、キリストのみ国は、この世の悪の勢力の攻撃を受けています。すべてのものが、神のみ子に服従するときまで、この攻撃は続くことでしょう。
ミサの中で、「マラナタ」という曲が時々歌われますが、この「マラナタ」という言葉は、「主よ、来てください」という意味です。主が再び私たちのもとに来られることを待望して私たちは祈り、歌うのです。そして、ミサのたびごとに、「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と唱えているのです。
◆イスラエルの希望であるキリストの栄光に輝く来臨
栄光のキリストの来臨が、いつなのかを私たちは知ることはできません。ただ、御父がその時と時期をお決めになるのです。ですから、言葉を換えて言えば、キリストが来られる可能性は、いつでもあるということです。御父のお定めによるとはいえ、神の民として選ばれた「ユダヤ人」とその他の神の民・異邦人がメシアをいつ認めるかということと、栄光のキリストの到来はかかっています。すべての人がメシアの救いにあずかるようになるときはじめて、神の民は「キリストの満ちあふれる豊かさ」(エフェソ4.13)で満たされ、「神がすべてにおいてすべてとなられる」(コリント1 15.28)のです。
◆教会の最後の試練
キリストが、私たちに聖書で教えてくださったように、主が再び来られる前に、私たち信者の信仰が動揺するような最後の大きな試練を受けるような出来事がおこることが言われています。この試練の一つは、「反キリスト」の出現です。自分をメシアと称して、自分に栄光を帰す偽のメシア観が横行すると言われています。
しかし、教会は、「反キリスト」の出現に動揺することなく、十字架上で苦しみを受け、死んで3日目に復活された主イエス・キリストへ忠実を尽くすことによって、試練に打ち勝ち、み国の栄光に入るように求められています。み国の完成は、悪の最後の猛攻撃に対する、神の勝利というかたちで実現され、この世界が最終的に崩壊した後で、最後の審判という形をとって現れます。
2 生者と死者を裁くため
終末のときには、すべての人は、神のみ前に出て、最後の審判を受けなければなりません。これは、人が死んですぐに受ける「私審判」とは別に、「公審判」と言われています。バチカンの中にあるシスティン礼拝堂には、ミケランジェロが描いた「最後の審判」の壁画があります。これは、画家であるミケランジェロが、自分の芸術的インスピレーションの赴くままに描いたもので、これは彼が思い描く「最後の審判」です。
イエス・キリストは、最後の審判について、たとえ話や、説教の中で話しておられます。一番有名な聖書の箇所は、マタイ福音書の25章31節から46節です。一度、ぜひお読みになることをお勧めいたします。このたとえの中で、イエスは「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」とおっしゃり、正しい人に「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」と宣言しておられます。
このように、私たち一人ひとりの心の思い、行いのすべてが明らかにされるのです。神のみ旨にかなったことがらは、人類の完成のときに取り入れられ、罪など神のみ旨にかなわなかったことがらは、捨て去られるのです。この裁きの権能は、御父から子であるイエス・キリストに委ねられています。御子であるイエス・キリストがこの世に降られたのは、裁くためではなく、世を救うため、ご自分のいのちを与えるためでした。この神のひとり子・イエス・キリストのいのちの恵みにどのように応えたかが問われるのです。
6項と7項の終わりに、それぞれ短い要約がついています。分かりやすく書かれていますので、ぜひ読んでみてください。