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緊急開催!!  「イラクの空には何が見える?」あるイラク青年の体験

2007/04/23

4月16日(月)の夜、「ニュース23」に、どこかで見たことのある顔が出ました。ホッとするような親しみのある顔……、2004年にイラクで拘束された高遠菜穂子さんでした。あのときは日本中が大きな騒ぎになり、3人が無事に救出されますようにと一生懸命祈ったことを思い出します。しかし一方では、日本政府をはじめ、多くの人々が「自業自得だ!」などと彼らを責め、救出に対して冷たく、3人とそのご家族は日本社会の厳しい批判をあびました。人間不信になるほど、辛い日々を過ごされたと思いました。あれから3年、新聞では、今でも、テロで何人なくなったというイラクの記事を目にしますが、主要な自衛隊も撤退し、イラクはどこか遠い世界になってきています。

高遠さんは、拘束事件の後も、イラクに入って子どもたちのために活動を続けているそうです。日本で講演会をしたりして集めた寄付で子どもたちの家を建て、支援しているということでした。イラク側には、高遠さんの活動を受け取る青年たちのグループができていて、しっかりした活動をしているようです。政府でもできないことを、個人で確実に活動している高遠さんの強さに敬服しました。

あるイラク青年の体験
ピースボートセンター東京入口

筑紫哲也さんのインタビューを受けている高遠さんのとなりには、高遠さんの活動のイラク側スタッフのカーシム・トゥルキさん(30歳)がいました。彼はイラク戦争中は共和国防衛隊に属していた兵士です。「ニュース23」でのお話から、カーシムさんがいろいろなところで講演会を行っていると知り、ぜひ、お話を聞きたいと思いました。さっそくインターネットで検索してみましたら、幸運にも、帰国前の最後のお話が、東京・高田馬場の“ピースビートセンター東京”で開かれるということでした。さっそく、ピースボートセンター東京に申し込み、高遠さんとカーシムさんのお話を伺うことができました。


今、イラクは……


あるイラク青年の体験
高遠菜穂子さん


ペルシャ文明の発祥の地、イランはペルシャ語を話し、メソポタミア文明の発祥の地イラクはアラビア語を話します。イラクにはイスラム教徒が多いのですが、クリスチャンも多く、人々は宗教に関係なく結婚しています。周辺の国々は、ヨルダン、サウジアラビア、そして自衛隊がいるクエートです。

イラクの首都はバグダッドで、2004年に高遠さんたち3人が拘束されたファルージャは、バグダッドから西に60kmの地点にあります。さらに西に60km行ったところにラマディ(Ramadi)という町があります。カーシムさんは、ラマディに住んでいます。

今のイラクは、治安維持上、3つに分かれています。北部のクルド自治区、首都バグダッドとそれ以南、そしてアンバール州の州都ラマディを中心とする西部です。バグダッドでは、スンニ派が主に殺されています。路上爆弾で、一日に70~100体の遺体が見つかり、拷問や虐待も受けています。

ここで高遠さんは、殺されたスンニ派の人の遺体の画像を見せてくれました。裸の上半身の真ん中、のどからお腹にかけて裂かれた後に、大きな黒い縫い目が見えます。手首には重い手錠がはめられたままです。2005年5月、スンニ派のお坊さんがイラク警察に連行されました。数日後、バグダッド郊外で遺体が見つかりました。彼の名はハサン師でした。同じ日に、10体の遺体が発見されました。遺体は、ハサン師と同じように、上半身の中央で裂かれ縫い目がありました。拷問を受けた跡が背中、腕に広がり、中には頭部を割られ、脳みそがなくなっている遺体もありました。葬儀のためにハサン師の遺体をモスクに運んでいる写真が映し出されました。写真には、葬送のために集まってきたたくさんの人が映っていました。彼らの持っている横断幕には、「イラク国営放送はどこへ行った。メディアはどこへ行った」と書かれていました。多くの人が葬送に参加しましたが、イラク国営放送は、この事件を報道しませんでした。

今まで、彼らは共存しており、スンニ派もシーア派もありませんでした。このような状態になったのは、政府に責任があると高遠さんは訴えました。


カーシム・トゥルキさんのお話


イラクの西部にあるラマディは、米国の掃討作戦がおこなわれており、大学は米軍の基地となりました。スナイパー(射撃兵)が大勢いて、町がよく見えるようにと、スナイパーたちのいる通りの反対側にあった学校、病院、銀行、青少年センター、そして、200軒ほどの民家はすべて破壊されてしまいました。ラマディの町は、とても危険な状態なので、メディアは入ってきてません。

あるイラク青年の体験
カーシムさん


今まで、2回米軍に逮捕されたました。最初は2003年で、日本人ジャーナリストのシバレイ(志葉玲)さんと一緒でした。次は2006年でした。深夜2時、米軍の海兵隊が、家のドアを破って入ってきました。家族全員を一部屋に集め、家具などはすべて破壊されましたそして兄と一緒に、南部の刑務所に連れて行かれました。手錠をかけられ、頭には袋をかぶらされ、戦車に乗せられました。刑務所は、かつては大学でした。刑務所ではオレンジ色の服を着せられました。

刑務所に行ってから、連行されたのは、英語のブログを書いているからだと分かりました。彼らは、ブログを印刷しており200枚ほどになっていました。「なぜ、イラクにいる米軍を占領軍と言うのか」「なぜ、米軍に武力で抵抗するのか」と問われました。ラマディにはメディアが入っていないので、町で起きていることを世界に知らせなければならいと思い、ブログをはじめたのです。高遠さんが、このブログを広めてくれました。ブログをはじめてから、いろいろな人から反応をもらいました。アメリカの一般の人からも反応が来て、いろいろと知られるようになり、それが米軍の目にもとまり逮捕されたのです。

収監されている間、いろいろなことを知ることができました。刑務所の中には、子どもたちがいました。その中の一人は、いとこでした。老人や病人もいました。全ての囚人は、一日2回、全裸にならなければなりませんでした。たくさんの人がいる前でです。今でも、隊の名前も、米兵の名も、囚人たちの番号も覚えています。

10日後、急に釈放されました。釈放は、とても変な方法でした。これから釈放されるとわかったとき、一番うれしかったことは、しゃべることができるということでした。刑務所の中では、話すことができなかったからです。

何人もの囚人を集め、トラックの荷台に乗せられました。目隠しをして、まるで荷物のような状態で運ばれ、しばらくして砂漠のようなところに投げ出されました。町から遠くはなれていましたが、近くをハイウェイが走っていました。そこはなかなか車の来ないところで、5~6時間そのままそこにいました。囚人は、いつもこの辺りに投げ出されるので、周辺の住民がそれを知っていて助けてくれました。

これはラマディの町で、空爆にあった家の写真です。大きな家で、3家族が住んでいましたが、米軍による空爆で7人が亡くなりました。医療チームもいないので、住民が対応しています。写真は、がれきの下になった人を引き出しているところです。しかし、この作業を1時間以内に終わらせなければなりません。なぜなら、人が集まっていることが分かると、米軍がやってくるからです。

兄は、昨年亡くなりました。交通事故にあい、病院に連れていけなかったのですが、米軍の検問所を通過できず、亡くなったのです。街の八百屋さんも破壊されました。そこには食料が備蓄されているからでしょう。

今、目指していることは“再建”です。診療所のオープンを計画しています。診療所は人々の助けになると思うからです。町では、動き回ることがとても困難です。町には止血のための方法がありません。緊急手当をする場所がないのです。また、家の再建もしています「イラク青年再建グループ」を作って、限られた中ですが、再建をしています。エンジニアと先生が集まっています。日本の再建プロジェクトが協力しています。人々を助けたいのです。また、怒りを抱えた人たちがたくさんいますが、彼らがその怒りのために銃を持たないようにすることが大切です。犠牲者たちは、報復を考えてしまいます。

わたしは、平和と暴力について、高遠さんと激しい口論をしました。しかし今、若い人々を報復の連鎖から引っ張り出すことに成功しています。わたしたちに敵はありません。人々から支援されています。戦争の中にいる米兵たちよりも、安全を確保できていると思います。


質疑・応答


質問:
 イラクに帰るには、勇気が必要だと思いますが。

カーシム:
 イラクは、わたしの帰るところであり、家族がそこにいます。わたしの将来もそこにあります。わたしは、もともとは兵士なので、兵士として戦うという選択もあります。しかし、平和的な方法を取るという選択もあります。平和的な方法を取るということが、兵士として戦うより、よいことだと最終的に理解できました。これは高遠さんと出会ってからのことです。彼女は、非暴力をぜったい退きませんでした。わたしは強い友達を持つことができて幸せだったと思います。

質問:
 指導者が拷問されていますが、捕虜になっても拷問をしてはいけないということがあると思うが、それは命令ですか、個人的なものですか、だれがやっているのですか?

カーシム:
 答えるものを持っていませんが、組織的に行われていると思います。バグダッドで行われいて、ラマディでは、あまり行われていません。

あるイラク青年の体験

高遠:
 2005年5月に行われたイラク初の国民議会選挙で、シーア派の政治政党が圧勝しました。アッタワ党とかSCIRI(サイリ イラク・イスラム革命最高評議会)が、となりのイランと密接につながっています。SCIRIという政治政党が民兵組織を持っており、その他にも、さまざまな種類のシーア派民兵がイラク戦争後に入ってきています。戦後、最初に行われた選挙で、各トップに政治政党の人が入りました。その中で、内務省というのがあります。イラク警察や国家警備隊などを直接管轄しています。そのトップに政治政党のリーダーが入ったので、リーダーの元に行って警察官になろうということで、民兵が警察官になってしまいました。米軍が復興支援ということで、警察を訓練していますが、米軍に変わって新しいイラク警察官が検問所に入りました。新しい警察官たちはしっかり働く気がなかった警官の服装をしていても、元々は民兵です。彼らがスンニ派の人たちを逮捕・連行しているらしいです。

 バドル軍団というシーア派の民兵組織があります。彼らはサダム・フセインを倒すために作られ、イランにサポートされた民兵組織です。総選挙後、彼らが一番に入ってきて、サダムの信奉者であるスンニ派の人々を集めては殺し……ということをやったそうです。末端の民兵は、ギャング化していて、お金で買われていてやっているようです。ここまで来ると、理由はないということです。

質問:
 日本の自衛隊は何をしていて、それをイラクの人々はどう感じていますか?

カーシム:
 航空自衛隊は、米軍の軍事行動をサポートしていると思われています。空自は、米軍の弾薬を運んでいるので、イラクでは、「自衛隊は米軍のパートナーである」と思われています。

高遠:
 自衛隊は、人道支援でイラクに来ているので、わたしたちがいくら人道支援している民間人と一緒に活動していると言っても、自衛隊とつながってしまいます。つまり、米軍とつながっていると思われてしまいます。それが、一番困難です。人道支援が信頼されなくなっています。政府ともつながっていない、民間人とつながっていると説明する必要があります。

質問:
 もし、日本の自衛隊を派遣している責任者に、15分会えるとしたら、何を伝えたいですか? 何を質問しますか?

カーシム:  イラクに対して「すまない」と言わなければならない日本人がいると思います。日本が送った自衛隊が、イラクの人々を傷つけているかを伝えるのに時間を費やしたいと思います。もし言い訳をしたら、そのときは会談を終わりにしたい。彼が本当のことを理解しないとうことだから。自衛隊を送ることによって、人々が殺されている、また、航空自衛隊が武器を送ることにより、米軍に加担したことになる。また、人道支援をしているとプロパガンダしているが、それにより、本当の人道支援をしている人々が、十分に活動できなくなっています。

 最後に2つのことを言いたいです。自衛隊はすぐイラクから出ていってほしい。そして、イラクを手助けしていると言わないでほしい。実際には、手助けしていないから。



さて、会場に、ジャーナリストの綿井健陽さんが来ていました。この2月、綿井さんが監督した映画「リトル・バード」が、米国で上映されました。その綿井さんから、ひと言を伺いました。「今、米軍が撤退したら困ると、イラクの人は言っていた。つかまるのだったら、米軍につかまったほうがいいと……。」

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綿井健陽さん



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「AERA」4.30-5.7号に、カーシムさんのことを書いた志葉玲さんの記事が載っています。あわせて、お読みください。

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