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済州島4・3事件60周年「共に歩もう 平和への道」

2008/04/29

チラシ

1948年4月3日、韓国の済州島で、その悲劇は起きました。戦争が終わり、日本の植民地支配から解放された韓国は、戦後の歩みが北はソ連に、南は米国にゆだねられていました。米軍に対する反発が起きていた済州島で、6人の青年が警察に殺されるという事件が起きました。「3・1事件」と呼ばれています。この事件をきっかけにして1948年4月3日、島全員が決起し、南朝鮮だけの単独選挙への抵抗が起きました。それに対して軍と警察は、武力による弾圧と無差別殺戮を行いました。その後1954年までの間に、3万人を超える島民が犠牲となりました。背景には、米軍の共産主義化を恐れた圧迫があります。

その後この事件は政府からなかったこととして扱われ、タブー化され、島の人々は、仲間や家族の死を悲しむこともできなくなり、涙を流すことは禁止されました。事件は歴史から抹殺されたのです。

1980年以後、国の民主化にともない事件の真相糾明運動が始まりました。1999年12月、金大中大統領は「4・3事件特別法」を制定し、国家による真相の究明と調査が始まりました。調査の結果、この事件は時の政権と米軍に責任があることが正式に認められ、2003年盧武鉉大統領は済州島を訪れて、事件は国の誤りであったと正式に認め謝罪しました。

虐殺の場の一つは、済州島国際空港となっています。現在、国家事業として遺骨発掘作業が行われ、事件を記憶するために、広大な敷地を持つ「4・3平和公園」が造られ、虐殺された人々の名を刻む墓碑や資料館の建設も行われています。

事件から60年にあたる今年はじめ、済州島では記念式典が行われ、日本からも150人が参加してが済州島を訪れました。

 

4月21日、日暮里駅前の「日暮里サニーホール」で、「済州島4・3事件60周年“共に歩もう 平和への道”」が行われました。会場は、席がなくなるほどいっぱいの人が集まりました。

集いは、「済州島4・3事件」で犠牲となった人々のためにささげる黙祷から始まりました。

 

第1部 対談「済州島4・3事件の『今』」

日本の地からこの事件について書き続け、記念式典に参加するための済州島に行った作家の金石範氏と、同じく式典に参加したエッセイストの朴慶南さんとの対談が行われました。

金石範(キム ソッポム):作家

1925年、大阪生まれ。京都大学文学部美学科卒。デビュー作『鴉の死』以後、一貫して「済州島4・3事件」をテーマにして執筆している。国家と民族、革命と自由、言論と思想、歴史と記憶といったテーマと格闘し、現代文学の金字塔を打ち立てた。代表作『火山島』(全7巻、文藝春秋)で1984年第11回大佛次郎賞を受賞。1998年、毎日芸術賞を受賞。

 
聞き手:朴慶南(パク キョンナム)

慶尚南道を故郷に持つ在日2世。立命館大学文学部卒。命の大切さと人間の尊厳を軸に、作家・エッセイストとして執筆、講演活動を行っている。著書に『私以上でもなく、私以下でもない私』(岩波書店)、他多数。

 

「悲しみの自由」 だれでも悲しんだら泣く。長い間泣くこともできなかった。悲しむことができなかった。今は、悲しむことが自由にできる。悲しむことができるのは、喜びなのだ。

「済州島4・3事件」のとき、兄弟を亡くしたが、亡くなった日がいつか分からない。悲しみを話すことができなかったが、それを今は語ることができる。

「60周年」と当たり前のように言うが、人が60歳を迎えたのとわけが違う。60年間、泣くことができなかったのだ。

今、発掘作業が行われてきている。飛行場となっている所は、かつては処刑場で、たくさんの人が埋まっていた。約800の遺骸が埋まっている。第1次発掘作業では、空港の東北部、米軍のキャンプのあった所が行われた。今年の5月か6月からは、第2次発掘作業が行われる。空港の滑走路の下にも埋まっているのではないかと思う。

発掘作業で、虐殺された人が60年ぶりに目の前に出てくる。どのようにして殺されたのか中学生もいた。学生服のボタンが残っていて「大中」と書いてあった。大中中学は、島の南にある。そこの学生がここまで連れてこられたのだ。

韓国から帰ってきたら紀行文を書かなくてはいけないが、書くためには思い出さなければいけない。掘り起こされた遺骨を見たとき現場では泣けなかったが、書くときに思い出して泣けた。

向こうでは、死刑とは言わない。解放と言う。苦しみからの解放だ。ある女性はきれいなタオルを持っていた。周囲の人は、痛みつけられた人のために、そのタオルをくれるようにと願ったが、彼女は手放さなかった。死んだら骨はバラバラになり、だれの骨か分からなくなる。そうしたら家族は骨を探すことができない。骨は残る。そのタオルに名前と住所を書いて太ももに縛りつけた。墨で書くと腐らないからだ。その話を聞いて、この女性の遺骨もあるのかと思った。

 

金石範先生は時々顔をゆがめて嗚咽をこらえておられました。朴慶南さんも、思い出して涙を流しておられました。計り知れない悲しみと悔しさ、怒り、それらが、身体の底から、血の中から悲しみとなって湧き起こってくる……という感じで、会場も、しばしば深い沈黙に包まれました。

 

第2部 済州島4・3事件でなくなった方々のために祈る「民俗クッ」

この日のために、在日のシンガーと済州島の演劇・芸術家が共同制作し共演したクッ(儀礼)です。「『済州島4・3事件』を語り、閉ざされた恨(ハン)を解き放ち、真実と希望の扉を開け、平和への一歩を踏み固めたい」(チラシより)という願いが込められたものです。

在日のシンガーソングライターの李政美さんの歌で、導入の祈りが始まりました。その後、済州島で虐殺に対する人々の苦しみ・恨みが、訴えるような慟哭のように歌われました。家族の遺体を探す人々の姿、「遺骨の確認ができないので引き取ることができない、みんな一つとなって追悼しよう」ということから“百祖一孫”の祈りとなっていく過程が歌と演奏、踊りで表現され、会場を徐々に慰霊の思いへと促していきました。

実際、記念式典ではこのように祈りが行われたと思いますが、この会場でもそれはパフォーマンスではなく、現実の祈祷になっており、済州島事件で家族・親族・友人を亡くした方々が、祈るためにステージ上に設けられた祭壇の前で祈りをささげました。

祈祷師は悲しいような願うような祈りをろうろうと歌い、さらにステージから下りて客席の通路に設けられた長い白い布を引き裂いて進んでいきました。祈祷師の後には、短冊をつけた笹を掲げた人々が続き、会場は祈りの渦の中に入っていきました。最後には、魂の安らぎを求めた歌と踊りとなって人々の心は一つになりました。

 

「民俗クッ」は、慰霊の儀式であると同時に、生きている人々の心の奥にあるしこりを解かすもので、人間の身体と五感を使って表現するすばらしい祈りの儀式でした。

主催者は、「言論の自由、これは基本的人権の一番大切なことである。しかし、半世紀の間、この事件については語ることができなかった。泣くこともできなかった。そして加害者が裁判にかけられることはなかった。責任の所在がどこにあるのか、今でも分からない。責任がどこにあるのかが分からないのは、泣くことができても、解決されたことにはならないのだ。虐殺は国家犯罪である。歴史を掘り起こし、正し、そこから学んで“共に歩もう、平和への道”を」と今回のテーマのことばで結び、集いは終わりました。

★2007年の集い「済州島4.3事件」記念講演会の様子 → ブログ「シスターのつぶやき」

文頭の飾り4月27日(日)の夜、NHK教育テレビ「ETV特集」で「悲劇の島チェジュ(済州)~『4・3事件』60年目の真相究明」が放送されました。在日の人々をとおして事件とその後を見つめていったもので、金石範先生も出演していました。この事件とその後、そして現在の取り組みについてよく知ることができました。

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