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「今、キリスト者として生きるとは」 -福島県カトリックの集い-

2008/09/24

9月15日(月)、仙台教区の福島県下の教会が集まって「福島県カトリックの集い」が行われました。会場の、福島市の桜の聖母短期大学のマグリット館には、仙台教区長の平賀司教と、郡山教会、白河教会、須賀川教会、いわき教会、原町教会、会津若松教会、喜多方教会、松木町教会、桑折り教会、二本松教会、野田町教会から、約200名の信徒、司祭、修道者が集まりました。

開会式の後、本日のメイン、「今、キリスト者として生きるとは」と題して、サレジオ会の山野内マリオ神父の講話がありました。小さいとき、アルゼンチンに渡り、11年前に司祭として日本に帰られました。ご自身の体験から、毎日を信仰者として生きるヒントをいただきました。簡単にご紹介いたします。

福島県カトリックの集い
開催の祈り

 

講話:「今、キリスト者として生きるとは」

講話の場合、お話を聞いて感動しても家に帰れば終わってしまう……ということが通常ですが、具体的に生きることができるよう、祈りについて、霊的読書、奉仕、秘跡……などの領域で目標設定をしたらいいと思います。

マリオ神父さまは8歳のとき、ブラジル丸に乗って、家族でアルゼンチンに渡りました。1984年、サレジオ会で司祭に叙階され、アルゼンチン、パラグアイなど6か国で修練長をし、1986年に帰国しました。5年前から、サレジオ会の調布神学院の院長をしています。

今までの人生を振り返ると、「多くの人と出会えて、神に感謝!!」の一言です。これが最初の信仰告白です。

11年前に帰国しました。日本人の顔なのに日本語が分からない状態で新幹線に乗りました。東京駅に置かれて大分まで行きました。当時は勇気があったと思います。日本人ですが、33年間アルゼンチンにいたので、アルゼンチン人でもあります。

福島県カトリックの集い
お話する山野内マリオ神父

東京オリンピックの年に、ブラジル丸で神戸港から出港しました。途中、横浜に泊まり、51日間かかって1964年7月21日、アルゼンチンに着きました。アルゼンチンに着いてから、父はわたしを名前ではなく洗礼名で呼ぶようになりました。アルゼンチンで生まれた弟も「お兄ちゃん」ではなく「マリオ」と呼びました。「マリオ」という名を意識するまでに、時間がかかりました。

アルゼンチンにいるとき父に尋ねました。「なぜ、アルゼンチンに来たのか?」しかし、父が答えた返事は納得できるものではありませんでした。それに反して母ははっきり答えていました。「カトリックの国だからよ」これは、もっと理解できませんでした。

帰国して、ブラジルの日本宣教師たちの集いに呼ばれたことがありました。そのとき、「アブラハムとサラ」という本を読んで、父がなぜアルゼンチンに行ったかが分かりました。

アルゼンチンに渡ったのは、父が33歳のときです。父はアブラハムの心が分かったのです。「今いる佐伯(大分県)の地から離れて、アルゼンチンへ行きなさい。アルゼンチンで、神は家族を祝福するだろう」父は「これだ!」と思ったそうです。しかし反対者の声も聞きました。父は神父のところへ行って相談しました。これを、「霊的指導」と言います。

神父は言いました。「親戚から反対されているが、神の声と思うのなら行きなさい。」父は神の声だと確信していましたので、出発しました。

父が事故に遭って、頭を36針縫ったときがありました。母と子どもたちは、ロザリオを必死で祈りました。「このときのことを忘れてはいけない!」と母は言います。弟たちも言います。「あのときは、はだかで祈った」と。祈りの重要性を感じました。

このように、自分の信仰生活を見直す必要があります。喜びのときだけでなく、十字架から逃げようとするときも……。「聖霊に満たされている」ということを感じてください。「聖霊、来てください。聖霊、満たしてください」と祈ります。今、教会が一番必要としているのは、聖霊に満たされた人です。学校などで、キャンプやいろいろな行事に参加する熱心な親はいます。「どうしたら信者になれるのですか」と聞く人はいます。しかし、ジャンプが足りないのです。厳しさを受ける覚悟がありません。

本当のキリスト者として生きるためには、聖霊に満たされる人になることが必要です。小さくてもいいが、神に出会った体験がなくてはキリスト者といえないのではないでしょうか。

近年、人びとは連帯意識を持つようになってきました。フィリピンにいたときのことですが、神学生は、フィリピンに教皇が来たときの体験より、神戸の地震のときに西宮のシスターたちのところに泊まって助けたときの体験のほうが、心に残り誇りとなっていると言っています。自分のためばかりでなく、他者の必要のために生きる必要があります。

南米の福音宣教の500年記念のとき、教皇ヨハネ・パウロ2世は「ラテンアメリカの教会は、全教会の希望である」と言い、「新しい福音宣教」を宣言しました。新しいメソッド、新しい熱意。しかし、ラテンアメリカも高齢化しています。「今までの福音宣教が古くなって、今の社会にあわなくなってきた」と言えるでしょう。新しい挑戦があります。若い人びとは燃える必要があります。新しいペンテコステ(聖霊降臨)が来てほしいと思います。

神が働きかけるのは聖堂ではなく、社会の場、生活の場です。神学を学ぶのは、生きた場です。

福島県カトリックの集い
平賀司教によるミサ

個人主義がはびこっています。ネオリベラリズムです。今の世の中で支配しているのは、「競争」を中心とした利権、権力です。一緒に生きている人への意識、母である地球への意識も変わらなければいけません。

1986年、教皇ヨハネ・パウロ2世は、アッシジで祈るために世界中の宗教家を集めました。これは祈るのが目的ではなく、宗教者として、世界に何を発信していったらよいかを考えるためでした。教皇が来るのは祈るためです。それは自分たちがいやされるためですが、宣教のためには、出て行かないといけません。聖霊に飢えていることを、実感してはじめましょう。

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「自分の信仰を振り返る」「聖霊を祈り求める」「はだかで祈る」、足を地に着た信仰生活を見直す刺激をいただきました。

アルゼンチンから日本に来て司祭として活躍しているマリオ神父さまは、やはりどこか、南米の雰囲気があり、ふところの大きな方だということを感じました。移民を決意したご両親のお話、また、マリオ神父さまが日本に戻られることにしたいきさつなど、いろいろと伺いたいなと思いました。いつか、マリオ神父さまのお話を伺う機会がありますように。

 

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