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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2007年3月5日


十字架

カトリック教会の暦では、2月21日から四旬節と呼ばれる季節に入りました。今年は4月8日にキリストの復活をお祝いしますが、聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサの前までこの典礼の季節が続きます。この四旬節の期間、すべてのキリスト者は、洗礼の恵みを思い起こし、自分自身から出て、人に心を開き、信頼のうちに御父の深い抱擁に身をまかせるように勧められています。過酷な暴力と十字架上の死の苦しみを引き受けて、わたしたちのために永遠のいのちを勝ち得てくださったキリストの愛に応え、断食や人への愛の行いや奉仕、自分には少し辛い犠牲をともなう節制、十字架の道行きの祈りなどをささげながら、特にこの季節、自分とすべての人が心を神に向きかえることができるように努めるのです。

旧約聖書でイザヤは、次のようにキリストの受難を預言しました。

イザヤの預言 53.1~12

    わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
    主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
    乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
    この人は主の前に育った。見るべき面影はなく
    輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

    彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。
    彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

    彼が担ったのはわたしたちの病
    彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
    わたしたちは思っていた
    神の手にかかり、打たれたから
    彼は苦しんでいるのだ、と。

    彼が刺し貫かれたのは
    わたしたちの背きのためであり
    彼が打ち砕かれたのは
    わたしたちの咎のためであった彼の受けた懲らしめによって
    わたしたちに平和が与えられ
    彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

    わたしたちは羊の群れ 道を誤り、
    それぞれの方角に向かって行った。
    そのわたしたちの罪をすべて
    主は彼に負わせられた。

    苦役を課せられて、かがみ込み
    彼は口を開かなかった。
    屠り場に引かれる小羊のように
    毛を切る者の前に物を言わない羊のように
    彼は口を開かなかった。

    捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
    彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
    わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
    命ある者の地から断たれたことを。

    彼は不法を働かず
    その口に偽りもなかったのに
    その墓は神に逆らう者と共にされ
    富める者と共に葬られた。

    病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
    彼は自らを償いの献げ物とした。
    彼は、子孫が末永く続くのを見る。
    主の望まれることは 彼の手に

    彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。
    わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

    それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
    彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
    彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。
    多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。

(沈黙)

復活祭をふさわしく迎えるために、この四旬節の旅路を母であるマリアが導いてくださいますように。今、わたしたちの願いをローソクの灯火に託してささげましょう。後ろでローソクを受け取って祭壇へささげ、「みことばのメッセージ」をお取りになって席へおもどりください。

きょうのアレオパゴスの祈りでは、わたしたちのささげものとして「ゆるし」について考え、お祈りしたいと思います。

キリストの最期を記したルカによる福音を聞きましょう。

朗読:ルカによる福音(23章33節~47節)

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

十字架


(沈黙)

『カトリック典礼聖歌集』No.316「主の十字架を仰ぐ時」①、③

知的ハンディーをもった人たちのコミニュニティー「ラルシュ」の創始者ジャン・バニエは「暴力の連鎖」を断ち切るということについて次のように語っています。

「ある工員が、工場長から不当な理由で怒鳴りつけられました。彼は解雇されるのが怖いので、工場長に向かってあえて反論はしません。そして心を怒りでいっぱいにして家に帰ります。家につくと、夕食の準備ができていません。そこで彼は怒って、妻を怒鳴りつけます。しかし、本当は妻を怒っているのではなく、単に工場長から向けられた怒りを妻に向けたのです。妻の方もあえて口答えをしません。そうすれば、夫がドアを蹴飛ばして出て行ってしまうでしょう。

 しかし、妻も怒りが込み上げてきます。そして、息子が台所で冷蔵庫から勝手に食べ物を取り出しているのを見て、しかりつけます。小さい子どもも口答えしません。そうすればたたかれますから。仕方なく外に飛び出して、犬を蹴飛ばします。

 これが、世代から世代へと伝わる「暴力の連鎖」というものです。この怒りの集約される終着点の一つが、障害を負った子どもたちです。しかも彼らは、こうした怒りに立ち向かえる術を知りません。およそ人間のもつ攻撃性を、全部自分の中に溜め込んでしまいます。たとえ人から蹴飛ばされようと、そうするほかないのです。

 キリストが十字架で苦しまれたことの神秘は、世界のすべての暴力をご自分の肉体で受け止め、それをすべて取り除き、代わりに赦しを与えることにその意味があります。つまり、キリストの受難の神秘は、暴力の連鎖を断ち切り、同時に、人間の持つ暴力性を「赦し」へ、また「やさしさ」へと変容させることにあるといえます。
 イエスは私たちを赦すためにまた、どうしたら私たちが他者を赦すことができるかを教えるためにこそ、地上に来てくださったのです。」
                       (ジャン・バニエ著『心貧しき者の幸い』より)

『カトリック典礼聖歌集』No.15「神よ あわれみと祝福を」交唱のみ

昨年、米国でベスト・セラーになり、日本でも『生かされて。』というタイトルで出版されたイマキュレー・イリバギザさんの本をお読みになった方がいらっしゃると思います。その本の中で彼女は1994年、ルワンダで起きた大虐殺において、殺人者たちによって自分の家族と多くの友人たちのいのちが奪われ、自分がどのようにその虐殺と敵を赦す苦しみを乗り超えることができたかを記しています。

「クローゼットの大きさしかないトイレの中で、7人の女性たちとともに恐怖に震えながら過ごした91日のあいだに学んだのです。・・・それは大虐殺の真っ最中に、私を憎み、私をとらえて殺そうとしていた人々をどのように愛し、私の家族たちを殺戮した人々をどのようにゆるすことができるかという学びでした。・・・

 祈りと悪魔のささやきのあいだでの葛藤は、私の心のうちに渦をまきました。私は決して祈りをやめませんでしたが、そのささやきも決して弱くなることはありませんでした。・・・

 私の中にある善きもの、信仰、希望、勇気などは、暗いエネルギーの中で壊れそうでした。私は、もし信仰を失ったら決して生き残ることはできない、戦うためには神様に頼るしかないのだとわかっていました。・・・

 ほんの少しでも祈ることをやめれば、悪魔の疑いと自分自身への哀れみという二枚の刃を持つナイフが私を襲います。

 祈りは私を守るよろいになりました。私はしっかりそれを心に着けたのです。・・・私は、殺人者のためにはじめて祈りました。彼らの罪をお赦しくださいと。私は彼らがこの世での命を終える前に、彼らがしている恐ろしい間違った行動に気づくことを祈りました。彼らの恐ろしい罪が裁きを受ける前に。

 私は父のロザリオを握り締め、神様に私を助けてくださいと祈りました。その時、もう一度、声が聞こえました。

 「彼らを赦しなさい。彼らは、自分たちがやっていることがわからないのだから。」
その日、私は殺人者たちを赦すために、一歩踏み出すことができたのです。怒りは私の中から消えていきました。私は神様に心を明け渡したのです。はじめて、私は、殺人者たちに哀れみを感じました。私は、神様に彼らの罪を赦し、彼らの魂を神の美しい光の方向に向けてくださいとお願いしました。

 その夜、私は、はっきりと意識を持ち、清らかな心で祈りました。この場所に着いてからはじめて、私は平安のうちに眠ることができました。」
                    (イマキュレー・イリバギザ著『生かされて。』より)

『カトリック典礼聖歌集』No.15 「神よ あわれみと祝福を」交唱のみ

私たちも互いにゆるしを願いましょう。私たちは人の弱さや傷を見てすぐに裁いてしまいがちです。ジャン・バニエは言っています。「私たちは『互いに仕え合う』というイエスが教えられたことの意味を十分学んでいません。むしろ、自分のことだけを考え、力や賞賛を得るために人に要求ばかりしています。

私たちは人々が賜物を発揮して生きることを赦していません。・・・人々が自由に上へ伸びることにがまんできず、逆に彼らを支配しようとして下に押さえつけようとします。ですから、私たちは、互いに赦し合う必要があります。・・私たちはたくさんのことをイエスにゆるしていただかなくてはなりません。しかし同時に、その心静かな沈黙の中で、次のことを真に知らされます。

『自分の中に、たくさんの闇があるのは本当だ。しかし、私は愛されている。そしてイエスは、私が成長するようにと招いてくださっている』私たちにできることは、ひたすらイエスを信頼し、イエスと共に歩むことです。」

私たちが互いに赦し合うことができるように主キリストが教えてくださった祈りを唱えましょう。

『カトリック典礼聖歌集』No.15「神よ あわれみと祝福を」

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