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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2007年11月5日


小菊

11月に入り、今年も残すところあと2か月となりました。カトリック教会の典礼の暦は、今月最後の日曜日である11月25日の「"王であるキリスト」の祭日をもって一年を終了します。そしてキリストの降誕を祝うクリスマスの4週間前から新しい年が始まります。今晩のアレオパゴスの祈りでは、「王であるキリスト」"の祭日に読まれる福音をご一緒に黙想しながら、祈ってまいりましょう。

この日のミサで読まれるルカによる福音書は、イエスとともに十字架につけられた2人の犯罪人のエピソードです。一人の犯罪人は、十字架から降りることができないイエスをののしりますが、もう一人は、十字架のイエスに神の働きを見ています。幸いにも彼は、人生の最後の最後にキリストと出会い、キリストとともに神の国に入ることができました。

この犯罪人を回心させた、同じみことばが、今晩ここに集うわたしたちの心に光りと救いをもたらしてくださるように祈りましょう。

『典礼聖歌』No.163 「よろこびに」①②

ルカによる福音書 23.35~43

「民衆は立って見つめていた。議員たちもあざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札が掲げてあった。

 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』

 そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。

(沈黙)

今、朗読された福音書は、俗にいう「天国どろぼう」のエピソードで、ルカは、イエスの受難物語に終止符を打ちます。イエスの息をひきとる瞬間のエピソードであるだけに、イエスが生涯をかけて伝えようとされたメッセージのすべてがここにはあるといえます。すべてはここに凝縮されているといえるでしょう。

イエスが生涯をかけて実現しようとされたこと、それは、罪人との出会いであり、罪人をとりもどすことでした。じつに、きょうの福音の場面は、イエスの生涯の終わりを飾るのに、もっともふさわしいものです。罪の中に生き続けてきた2人の人間と、罪を一度も犯すことのなかったイエス。

「我々は、おこなったことの報いを受けたのだから当然だが、この人はなんの悪事もしなかった」同じように十字架につけられながら、イエスと二人の男たちほど、それぞれの生きてきた世界が異なるものはないと思います。二人は、まわりの人々の幸福を破壊し、平和を乱し、悲しみの原因になってきた男たちです。それに対して、イエスはよろこびの使者であり、生命の創造者です。彼らがエゴイズムと欲望のかたまりだとするなら、イエスは愛そのものです。二人の人生がやみに向かい、滅びにつっぱしるものであるのに対して、イエスの人生は光と希望に向かったものです。

まったく別の歩み、まったく正反対の生き方をしてきた者たちが、十字架の上で出会うのです。同じ十字架でありながら、その歩んできた道がちがうように、それを受けとめる心もまったく異なります。二人の男たちにとって、十字架は絶望であり、死です。イエスの十字架は、やみを照らす輝きであり、罪のゆるしを与える愛があふれています。

十字架上のイエス

福音書をみれば明らかなように、イエスを拒む人々と受け入れる人々がいたように、この最後の瞬間にも、拒む者と受け入れる者とがいます。「あなたは、キリストではないか。それならば、自分と我々を救え」自分の人生に対する反省がありません。自分の欲望、自分の世界しか見えないエゴイストです。せっかく光と隣あわせになりながら、光に心をひらくことができないまま、その人生を終えることになります。

もう一人の男は、こう叫びます。
「まだ、神を恐れないのが。我々はおこなった報いを受けたのだから当然だ」彼は、自分の人生の罪を認めます。自分の無の自覚。それが、彼に光りへの道をひらきます。やみから光へ、絶望から希望への転換のために、なにも特別なことは必要ではないのです。善行も功徳もいりません。自分の罪とその汚れに目覚めるというだけでよいのです。あとはイエスがひき受けてくださるのです。

(沈黙)

ルカ福音書に記されているこのエピソードのすばらしさは、じつに、ここにあります。人生をやみの中に生き続けてきた人間が、十字架の上で苦しみを耐える以外なにもできなくなってしまった男が、ただただ、心を転換し、へりくだることによって、救いを得るということです。ここに、汚れた人生しか生きられないわたしたちに向けられた希望があります。

イエスは、ここで、男の過去の人生のつぐのいを求めていません。過去を責めることもしません。彼の一生が、罪と汚れにおおわれたものであるということを、彼以上に深く知りながら、それを責めず、逆にそれをおおい、新しいよろこびを与えてくださるのです。それがゆるしなのです。過去を塗りかえることのできない人間にとって救いの道は、ゆるしだけです。

イエスの十字架は、わたしたちの過去をゆるし、しかもわたしたちの罪の責任をかわりに背負うものです。ですから、十字架の上で楽園を保証されたこの男の救いは、イエスのあがないの初穂、最初の実りといえます。そして、その後、何世紀にもわたり、イエスと出会い、救いを求める人々に救いのあり方を示すものとなります。    (『神のやさしさの中で』より抜粋 森 一弘著 女子パウロ会)

心に残っているところにとどまり、しばらく祈りましょう。

(沈黙)

『典礼聖歌』No.388 「ガリラヤの風薫る丘で」①②

結びの祈り:
 栄光の王であるキリスト、あなたは、自分の罪を認め、へりくだる者に、楽園を約束なさいました。どうかすべての人の心を照らしてください。造られたすべてのものが、あなたのうちに、一つに集められ救いの神秘にあづかることができますように。アーメン。

『祈りの歌を風にのせ』p.35 「主に賛歌を」⑥⑦⑧

これで今晩のアレオパゴスの祈りを終わります。

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