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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2008年3月1日


梅

2月6日の「灰の水曜日」から四旬節と呼ばれる季節に入りました。今年は3月23日にキリストの復活をお祝いしますが、聖木曜日の主の晩餐の夕べのミサの前までこの典礼の季節が続きます。この時期は伝統的に、わたしたちキリスト者が、キリストのご生涯、特に受難と十字架の苦しみと死を思い、そしてキリストとともに復活のいのち与るように備える準備のときとされています。

イエスは言われました。「わたしは地上から上げられるよき、すべての人を自分のもとにひきよせよう」(ヨハネ12.32)と。こうしてあらゆる時代のあらゆる人びとが、イエスの苦しみと復活の体に惹きつけられてきました。わたしたちの痛み、喜びのなかで、イエスがご自分のなかに取り入れなかった痛みや喜びはひとつもありません。

わたしたちを取り囲む広い世界、そしてわたしのなかにも、はかり知れない痛みや苦しみがあります。しかし、すべての痛みや苦しみは、イエスが受け取ってくださいます。ですからわたしたちは絶望に打ちのめされることなく、人間の悲しみの辛い現実に直面することができるのです。イエスが十字架を通して復活に至ったように、わたしたちの痛みは、イエスによってその栄光を受けた傷へと変えられていくのです。

今、わたしたちの心に浮かぶさまざまな願いをローソクの灯火に託してささげましょう。後ろでローソクを受け取って祭壇へささげ、「祈りのカード」をお取りになって席へおもどりください。

聖パウロはダマスコへの道で復活したキリストに出会い、神に対するイメージはまったく変えられました。復活したキリストを見、このキリストが十字架につけられたイエスだと気づきます。パウロは十字架に秘められている神秘の深さと豊かさを直感し、わたしたちに対するキリストの愛の深さを悟りました。聖パウロのフィリピの信徒への手紙を聞きましょう。

フィリピの信徒への手紙 2.5~11

互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

(沈黙)

『典礼聖歌集』No.402 「仕えられるためではなく」①~③

「自分をむなしくして、僕の身となり、・・・死にいたるまで、十字架の死にいたるまでへりくだって従う者となられた」とパウロが記しているキリストの姿は、おそらくパウロ以前から伝えられていたキリスト賛歌からの引用と思われます。キリストは神としていっさいの特権を持っていたにもかかわらず、それらに少しも執着せず、守ろうともしません。むしろそれらを放棄します。「自分を無にして・・・」なにも自分のためには残さず、すべてを完全に人に与えて自分は空になります。人より良い条件や立場ではなく、むしろ最後の場に身を置きます。たとえどんなに罪深く、弱く、どうしようもない者でも、だれひとりその愛から除外されることがなく、すべての人を包みこみ、救うことができるように、キリストは当時、奴隷や極悪人に負わされた十字架という極刑にいたるまでご自分をわたされます。ひとりも滅びることなく救われることを望んでおられる父である神の心に完全に従われたのです。

キリストの歩まれた道は、低く、低くへりくだり、徹底的に自分を無にして仕えることでした。これはキリストが行われた業を明らかにするだけではなく、神がどんなかたであるかを啓示しています。キリストは仕える姿のうちに神を現しておられるのです。わたしたちに存在を与える神が、わたしたちに仕えるかた、すなわち他者に余すところなく自己を明け渡し、自己を完全に開き現すかたであるということです。そうであるなら、神によって愛され、造られたわたしたちは、神がご自分を与えてくださったように、わたしも他者に自分を譲りわたすことによって本来の自己になっていくのだとわかるのです。

イエス

パウロは神から、キリストから、限りなく愛されているということを心の奥深く体験しました。愛され、ゆるされ、受け入れられ、救われたと信じることによって、彼はまったく新しく生きるようになりました。わたしたちは本当に神に愛されていると感じているでしょうか? そしてそれを受け入れるでしょうか? 心の本当の喜びは、神に支えられ、神に満たされているということを自覚するところからきます。パウロが受けたと同じ愛がわたしたちのうちにも染み渡りますように。

しばらく個人的に祈りましょう。

「主こそまことの救い」 2回繰り返す

    主こそ まことの救い 永遠(とわ)の喜び
      わが力 わが歌 主のみを信じて 決して恐れない

「神のしもべの受難」 (ペトロの手紙Ⅰ 2.21b~24)

  キリストは わたしたちのために苦しみを受け、
  あなたがたが その跡に従うよう模範を残された。
  キリストは罪を犯したこともなく、
  いつわりを口にされたこともない。

  ののしられても ののしり返すことなく、
  苦しめられても おどすことなく、
  正しくさばかれるかたに、
  ご自分をゆだねられた。

  わたしたちが罪に死んで正しく生きるため、
  キリストは十字架の上で、
  わたしたちの罪を身に負われた。
  その傷によって、あなたがたもいやされた。

  栄唱:栄光は父と子と聖霊に。
     初めのように今もいつも世々に。アーメン。
 

イエスは言われました。  わたしをつかわしたかたのみ旨とは、わたしが与えたすべての者をひとりも失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみ旨は、子を見て信じる人がみな永遠の命をもち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることである。

 わたしをつかわされた父が引き寄せなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。わたしは終わりの日に、その人をよみがえらせるであろう。

祈りましょう。
 主よ、あなたに信頼し、あなたへの愛に満ちて十字架をになうことをわたしに教えてください。また、隣人のために、愛をこめてその苦しみをささげながら、忍ぶことを教えてください。主キリストのご生涯にならい、ついには永遠の復活の喜びに至ることができますように。アーメン。

「わたしはなりたい キリストを生きる人」 2回繰り返す

    わたしはなりたい キリストを生きる人に
      わたしはなりたい キリストを生きる人に

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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