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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2008年7月5日


ユリ

 

6月28日から、世界のカトリック教会にとって恵みの一年となる、聖パウロの生誕2000 年を記念して「パウロ年」が開始されました。東京教区では、イグナチオ教会で岡田武夫大司教司式によってたくさん人々の列席のもとに、開年ミサが行われました。また、29日には、長崎教区の浦上教会で、そして7月5日には、大阪教区の玉造教会で開年ミサがささげられました。これからの一年、各教区・小教区では、聖パウロについて学び、祈るためにいろいろなイベントが計画されています。

聖ペトロとともに教会の礎を築いた聖パウロは、教会のために“手紙”という大きな遺産を残しました。その手紙には、聖パウロのキリストの愛にかられた熱い情熱が読み取れます。ここに集まったわたしたちに、聖パウロ自身が語りかけてくださり、彼をとおしてキリストの深い愛をよりいっそう知ることができるよう祈りましょう。

また、7月7日から9日まで、北海道洞爺湖サミットが開催されます。世界経済、環境問題、アフリカの発展など、今、わたしたちが直面している問題の解決に向かって、努力すべき課題が話し合われます。特に地球温暖化は、緊急を要している大きな挑戦です。

豊かな自然があふれる北海道洞爺湖で、各国の首脳たちが、より良い世界の実現への展望をひらく、実りある討議ができるよう、国際社会の一致団結した取り組みを祈り求めましょう。

後ろでローソクを受け取り、祭壇にささげましょう。祭壇の上のハガキをお取りになって席にお戻りください。

今晩の「アレオパゴスの祈り」は、使徒パウロの「コリントの信徒への手紙」の中にある“愛の賛歌”と呼ばれている箇所を読み、パウロの語った愛について黙想してまいりましょう。

コリントの信徒への手紙1 13.1~13

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことは棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
 

このコリントの信徒への第一の手紙は、パウロがエフェソにいた3年に近い滞在のときに書いたものと言われています。エフェソでは、たくさんの人々が信者になりましたが、成功と同時にひどい反対にもあってパウロは、投獄され、たいへんな苦しみに遭いました。彼は、この町にいた間にあちこちの共同体に向けて手紙を書きました。弟子たちをとおしてパウロのもとに届く教会のニュースは、うれしいものだけでなく、心配なもの、悲しいものもたくさんありました。

コリントの信者たちの間には、分派争いが起きていました。「わたしはパウロにつく」とか、「わたしはアポロにつく」、「わたしはペトロにつく。ペトロのほうが使徒の頭だから」とか「わたしはキリストだけでいい」とか。また、「わたしたちはキリストに救っていただいて、もう自由な人間になったので思うままに生きていい」と言って、気ままな生活をおくる人もいました。

キリストの福音のとてもだいじな点が曲げられたり、信者たちの間には絶えず争いがあったりしました。パウロは、すぐにでも駆けつけていきたいのですが、そうもいきません。手紙を書いて、弟子に持たせ、戒めたり、励ましたりしました。

今読まれた手紙は、洗礼を受けてキリストと一つに結ばれたコリントの人たちに、みんな一つの心の兄弟となるようにすすめ、最高の道を歩むよう教えています。また、結婚式を挙げる人たちが、これからの結婚生活の中で、互いにこの愛に成長できるよう願いながら、式の中での朗読によく使われる箇所としても知られています。

(沈黙)

「愛がなければ、騒がしいどら、やかましいシンバル。無に等しい、何の益もない」とパウロは強い表現を用います。

「騒がしいどら、やかましいシンバル」とは、聞く人に、何の感動も与えない、聞く人の心に届くことのないものであるということなのだと思います。おそらくその当時、会堂や神殿の広場で恍惚状態になって、神のことばとしてなにかを語る人々がいたのでしょう。一般の人々は、そうした人々を評価していたのかもしれません。しかし、パウロは、愛がともなわなければ、たとえその内容がいかに崇高・深遠なものであろうとも、騒音以外のなにものでもないと言うのです。

「無に等しい」とは、価値がないということです。律法学者や神殿に仕える祭司たちは立派な信仰を持ち、模範的な生活をおくっていたのでしょう。しかし、たとえ崇高な知識を持ち、山を動かすほどの信仰を持っていても、愛に息吹かれていないならば、まったく価値がないと言うのです。

「益がない」というのは、自分のために何のプラスにもならないということです。施しや殉教は、律法では最高の善行として評価されてきたものですが、しかし、愛がなければ、神のみ前では無であり、人間の救いとはならないと断言しています。

パウロは「愛は律法の完成である」とも言います。愛が最高のものであるというこの確信は、新約聖書に共通するものです。「愛はねたまず、誇らず、高ぶらぬ」とパウロは説明を続けます。

聖パウロ

「ねたむ」とは、自分の望むものが相手にあって自分にはなく、自分を中心に考えるために他の人の幸せを否定する心の動きです。称賛されている仲間を見て、ねたむ。経済的に恵みた友を見て、ねたむ。昇進する同僚を見て、ねたむ。なにかに成功し、多くの人々から称賛される友を見て、ねたむ。身近な仲間の幸せを見て、「よかったね」と心から言ない人間の弱さがここにあります。顔がこわばって、自分の気持ちを乗り越えられない。もし「相手の幸せを願う」愛があれば、それを乗り越えられるはずだとパウロは言いたいのでしょう。

「誇る」とはねたむとは反対の状況から現れます。他の者よりも、自分が幸せになっている、それを自慢する心の動きです。根っこには自分と他者の比較があります。

「高ぶる」とは、他の人の上に自分を上げていることです。他の人の幸せを真剣に願う心があるならば、決して現れないものです。

わたしたちの愛はもろく、弱く、挫折しやすいものです。ここでパウロが述べる「愛」ということばを「このわたし」と置き換え、コリントの信徒への第一の手紙13章の4節以降を、読んでみてください。“わたしは忍耐強い。わたしは情け深い。わたしはねたまない。・・・・”恥ずかしくなって、読み続けることができなくなるのではないでしょうか。この「愛」の代わりに、「キリスト」と置き換えるなら、ぴったりします。“キリストは忍耐強い。キリストは情け深い。キリストはねたまない。・・・”おそらくパウロは、キリストをモデルに置きながら、愛の賛歌をつくったのかもしれません。
『愛は死んでもいいということ』森一弘著 女子パウロ会刊より

しばらく個人的に祈りましょう。

「清い心で」② ③ ④

パウロは回心したときから、福音のためにすべてをささげ、福音のために、あらゆる困難、迫害を忍びました。彼の取り次ぎによって、わたしたちが試練に会うとき、孤独のとき、人間関係の苦しみの中にあるとき、これらの困難から乗り越えさせてくださるよう祈りましょう。

「忍耐を求める祈り」(『パウロ家族の祈り』より)

光栄ある聖パウロ、
あなたは、キリストを迫害する者から、最も熱烈な使徒とされ、
救い主イエスを地の果てまで知らせるために、
投獄、むち打ち、石打ち、難船、あらゆる迫害に苦しみ、
血の最後の一滴までも流されました。
病弱、苦悩、この世の不幸を、
神のあわれみによる恵みとして受け入れる心構えを
わたしたちに取り次いでください。
わたしたちが、この世の過ぎ行く旅路にあっても、神への奉仕を怠ることなく、
ますます忠実な、熱誠あふれる者となりますように。
 

『カトリック典礼聖歌集』p.302 「いつも喜んでいなさい」

最後にパウロのことばを聞きましょう。

コリントの信徒への手紙1 15.9~10

わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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