アレオパゴスの祈り
アレオパゴスの祈り 2009年11月7日
主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から
大地が、人の世が、生み出される前から、代々とこしえに、あなたは神。
あなたは人を塵に返し、「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜のひとときにすぎません。
あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。
朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れていきます。
(詩編90.1~6)
神よ、わたしはいつまで生きるのか。身のはかなさを悟るために
終わりの日を示してください。
人は皆、立ってはいるが通り過ぎる風。人は影のように動き、
むなしく騒ぎまわる。蓄えたものもだれのものになるかわからない。
主よ、わたしは今、何に希望を置くことができよう。
あなたこそわたしの希望。人は皆、通り過ぎる風、
しみに食われるようにその喜びは消え去る。
わたしは先祖のように旅する者、あなたのもとに身を寄せる。
(詩編39.5~8、12~13)
カトリック教会では、11月を「死者の月」として、亡くなった方々が、神さまの憐れみによって、永遠のやすらぎを得ることができるよう特別に祈る月としています。特に、11月2日を、「死者の日」として記念し、亡くなった方々が、イエス・キリストの復活のいのちにあずかることができるようにミサがささげられました。
今晩は、亡くなったすべての人々のために祈りをささげましょう。
・神のもとに召されたわたしたちの家族、親族、友人、恩人のために。
・また、病気や不慮の事故や災害、戦争、自死、死刑など、さまざまな要因で亡くなられた方々のために。
そして、この機会に「死」についても、考えてみましょう。「死」について見つめることは、わたしたちが今、どのような価値観を持って生きているのかを知り、自分の人生を充実させていくための助けになるでしょう。
ローソクを受け取り、祭壇にささげましょう。
祈願:いつくしみ深い父よ、
今夜ここに集まったわたしたち一人ひとりの祈りを受け入れてください。あなたのもとに召された人々が、すべての罪から清められ、永遠の復活のいのちにあずかることができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。
死という出来事は、例外なくどの人にも必ず訪れる事実です。人はだれでも最後は死を迎えることを知っています。しかし、現代の社会では死について本気で考えることが難しくなってきているようです。一人の人が死んでも、世の中は何事もなかったかのように過ぎていきます。社会はあたかも死など存在しないかのように、いのちの営みに中心を置いて、今までどおりの生活を続けていきます。
また、一昔前と違って、家庭で死を迎えるケースは減ってきていますし、核家族が進んだこともあって、特に若い人たちが臨終の場に立ち会う機会も少なくなっています。
このように、わたしたちにとって、死ということは日常生活の外に、特別のこととして置かれてしまうようになりました。死について考えることは、自分がどう生きていくかという問題に直接つながっています。人間は生きたように死んでいくと言われるのもそのためでしょう。
新約聖書のヨハネ福音書では、「永遠のいのち」ということばが多く使われています。イエスは死のかなたにあるいのちについてはっきりと語っています。この「永遠のいのち」はキリストの教えの中心にあるものです。イエスへの信仰に生きる人は皆、永遠に生きると語ります。
ヨハネ福音書のイエスのことばを聞きましょう。
ヨハネによる福音 6.35~40、47~51
イエスは仰せになった。 「わたしがいのちのパンである。わたしのものに来る者は、けっして飢えることがなく、わたしを信じる者は、けっして渇くことがない。しかし、わたしが言ったように、あなたがたは、わたしを見たのに信じようとはしない。父がわたしにお与えになる者は皆、わたしのもとに来る。わたしは自分のもとに来る者をけっして追い返さない。わたしが天から降ったのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方のみ旨を行うためである。わたしをお遣わしになった方のみ旨とは、わたしが、与えられたすべての者を、一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。わたしの父のみ旨は、子を見て信じる人には皆、永遠のいのちがあり、わたしがその人を、終わりの日に復活させることである。
「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者は永遠のいのちを持つ。わたしはいのちのパンである。あなたがたの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んだ。だが、これは天から降って来たパンである。これを食べる者は死なない。このパンを食べる人は永遠に生きる。わたしは天から降ってきた生けるパンである。
(沈黙)
人はふたつのいのちを生きるように、この世に生を受けてきたとも言えるでしょう。『あなたがたの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んだ』と言われる肉のいのちと、朽ちないもっと大きないのち、つまり、自分に死んで新たに神によって養われて生きるいのちです。死の向こうに何があるのか知っている人はだれもいません。ただ、信仰によって知る以外に方法はないのです。
わたしたちに約束されている永遠のいのちは、死んで復活されたイエスのいのちにあずかることです。ですから、永遠のいのちは、死後にいただくいのちのことではなく、イエスに従う者の生き方は、すでにこの世で、永遠のいのちを生き始めているのです。
(沈黙)
昨年の11月24日、長崎で「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式が行われました。殉教者たちは、自分のいのちを賭(か)けて、神さまの愛を証ししました。彼らはキリストが生き、教えた福音こそ永遠に変わらない真理であって、この世で価値があると見なされている富や名声、権力や地位ではないことを、身をもって示しました。それらをすべて失っても神さまだけが人間を救うことができると信じていました。
188殉教者の中には、15歳以下の子どもたちが30名含まれていました。「あんなに幼い子どもたちを巻き添えにして・・・・」と否定的に捉えられるかもしれません。当時のキリスト信者は、親として、この世のいのちだけでなく永遠のいのちを信じ、子どもの魂の救いを考えていたからです。いのちを棄てることが目的ではなく、いのちを棄ててでも伝えたいメッセージがあったからです。幼い子どもたちも、親の信じている大切なものを意識的にあるいは、無意識的に感じ取っていました。親が目の前で殺されても、死を恐れず、そっと自分の首を斬られるために差し出したと報告されています。
熊本の殉教者、小笠原玄也とみや夫妻は、殉教することを知っていて、人間的に未来のない生活を強いられながらも、子どもを産み育てました。子どものいのちは、神からの授かりものであること、子どもがこの世で苦労したとしても、神さまが与える存在の喜びを味わわせるために、この世に誕生させていきました。そこには、自分たちの都合や考え方で、この状況を幸不幸とは判断しない神さまへの信仰が彼らの中で輝いていました。
小笠原みやは、次のように言っています。“棄てることのできない宗教ですので、このような事態になりました。わたしたちがこうして喜んで死ねますのは、キリシタンの信仰こそ、いのちにも替えられぬほど大切なものだからでございます。”
1636年1月30日、熊本花岡山の麓にある禅定院(ぜんしょういん)という寺院において、小笠原一家、玄也とみや、そして息子6人、娘3人、奉公人4人は、斬首され殉教しました。
(沈黙)
現代に生きる、わたしたちは、どのような生き方ができるでしょうか。殺されるだけが殉教ではなく、自分の苦しみや人からの侮辱を受け入れること、孤独に耐えること、ゆるすこと、他者のために祈ること、奉仕すること、このような生き方を目指し、愛の証しとなるなら、同じように現代においての殉教と言えるのではないでしょうか。
(沈黙)
上の画像をご覧ください。
この絵は、フレスコ画イコンの「主の復活」と呼ばれ、イスタンブルのカーリエ博物館のホーラ(コーラ)修道院聖堂内の天井に描かれているものです。キリストが陰府に降り、死を滅ぼし、アダム以来のすべての人類を死から解放したことを表し、キリストは光り輝いています。復活の力は下から上ではなく、上から下へと働きます。今や、地獄は光に満たされました。棺桶のふたは開けられ、キリストの足もとに踏みつけられています。アダムとエバを代表とする全人類は、死という棺桶から解放されました。死をつかさどる者はキリストの足もとに縛られています。
キリストは自分だけよみがえったのではありません。アダム以来の全人類を再び立ち上がらせました。彼は、ひざまずいているアダムとエバのところへ行き、彼らを地獄の棺桶の中から天に引き上げるために手を伸ばして、上昇していきます。古いアダムと新しいアダムの出会いです。右後ろにはモーセと預言者たちが、左後ろにはダビデ王と洗礼者ヨハネが描かれています。この絵はキリストの『死への勝利』を声高らかに歌っています。
(沈黙)
死者のためにする祈り
イエス・キリスト、栄光の王である主、
聖母マリアとすべての聖人の取り次ぎによって、
神を信じて亡くなった人々を、復活の栄光にあずからせてください。
大天使ミカエルの取り次ぎによって、
アブラハムとその子孫に約束された聖なる光に、彼らを導いてください。
主よ、彼らのためにささげる賛美の祈りを受け納め、
彼らを永遠の喜びに迎え入れてください。
主よ、永遠の安息を彼らに与え、不滅の光で彼らを照らしてください。
彼らが安らかに憩いいますように。
アーメン。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ』(ヨハネ12.24)
これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。
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