アレオパゴスの祈り
アレオパゴスの祈り 2009年12月5日
今年も12月を迎え、カトリック教会の暦では、待降節と呼ばれるキリストの誕生を待ち望む準備の期間となりました。赤い4本のローソクは、待降節の間の日曜日、つまり主の日が4回あることを示しています。一週間ごとに灯されるローソクが、一本ずつ増えていくとともに、主キリストがだんだん近づいておられることを意味しています。
新約聖書のヨハネ福音書の始めに「光は暗闇の中で輝いている」と語られています。光は闇の中にこそ輝きます。人間はだれでも、心の中に闇を抱いているものです。人を、言葉や行いによって傷つけてしまった悔い、挫折感や孤独感など、心の闇は暗く悲しいものです。しかし、この闇が深ければ深いほど、「まことの光」はその人の心に輝きを増します。
混沌とした現代世界に生きる一人ひとりの心の奥に、このクリスマスのまことの光が輝きますようにと、今年最後の「アレオパゴスの祈り」に願いを込めて、祈りましょう。ローソクを受け取り、祭壇にささげましょう。
わたしたちは、自分の楽しみにしていることのためなら、辛抱強く待つことができます。実際に、救い主イエス・キリストの到来を、長い間待ち続けたイスラエルの人々のこと、そしてイエス・キリストがどのように来られたのかを、今日はご一緒に思いめぐらしてみましょう。
神は、昔、アブラハムという人を選び、「おまえの子孫から救い主が生まれるであろう」と約束されました。どんなに人々の罪を重ねても、見捨てることなく、人間を救おうとされる神は、イスラエルの歴史の中に働き続けられました。それで、イスラエルの人々は、約束のとおり「自分たちを救ってくださる主が来られる」という信仰を持ち続けることができました。
紀元前1000年ころ、イスラエルには、ダビデという王様が支配していました。このダビデ王の子孫から救い主が生まれるであろうとの期待が、人々の中に育っていきました。苦しい歴史が続き、外国の勢力が次から次へと押し寄せて、ついに神殿が破壊され、祖国が奪われる日も体験しました。試練の中でも、救い主が来られるという希望を、次の世代へと伝えていきました。救い主が来られるというゆるぎない信仰は、彼らの心を常に支えてきました。そしてついにそのときが来ました。
旧約聖書のイザヤの預言を聞きましょう。
イザヤ35.1~6
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」
『典礼聖歌』No.184「わたしは静かに神を待つ」① ②
ルカ福音書の伝えるイエスの誕生の物語を聞きましょう。
ルカによる福音 2.1~16
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。
これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
今読まれた、ルカ福音書が伝えるイエスの誕生の物語は、非常に静かなひびきを持っています。神がそのひとり子をこの世に送られるのに、ひっそりとした真夜中を選ばれました。全世界を救うという歴史の中で最も大切な神のわざが始まった、救いの訪れを一番先に告げられたのは、羊飼いたちでした。彼らは、当時の社会の中で、軽蔑され、律法を守ることができない者とされ、それ故罪びととみなされていた人たちでした。羊飼いたちは、丘の上で羊の群れの番をしているとき、救い主の誕生を知らせる天使たちに出会いました。そして、彼らは、自分の目で確かめようとベツレヘムへと向かったのです。
聖書が描いているクリスマスの情景は、人間的な目から見るならば、みじめな貧しい飼い葉桶に、人目に立たない弱々しい幼子の誕生で伝えられています。
「彼らが、ベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」
とあります。「場所がない」とは、とても寂しく辛いことです。「"わたしには居るところがない」「ぼくには場所がない」という子どもたち、会社でリストラにあって仕事を失ってしまった人たち、住む家がない人たち、戦争や紛争で国を追われ逃げまどう人たち。
わたしたちも日常生活の中でたびたび、"自分の場所がない"と感じて悲しくなってしまうこともあるでしょう。今夜は、イエスのことを考えてみましょう。宿屋に場所がなくて、イエスは生まれるとすぐに、飼い葉桶に寝かされました。家畜のための飼い葉桶に神がいらっしゃるなんて、だれが想像できたでしょうか。
今、世界中で、クリスマスになると教会で飾られる馬小屋は、場所がなくて仕方なくイエスを置かれたその飼い葉桶です。聖書は、"これがあなたがたへのしるしである"と語っています。居場所がない一人として生まれたイエスは、目に見えるしるしとなってくださいました。イエスは、わたしたちが居場所がないと感じて寂しく辛い思いをするとき、飼い葉桶から、わたしたちと一緒にいてくださり、勇気と力を与えてくださるのです。
(沈黙)
クリスマスの出来事は、二千年も前にイスラエルの国のベトレヘムという町で起こったことです。確かに、時代と場所を遠く隔てたわたしたちには、信じがたいことかもしれません。しかし、神の子イエスが生まれた最初のクリスマスの晩、そこに居合わせた人々にとっても不思議なことでした。救い主は、母マリアに抱かれ、マリアから世話をしてもらわなければ生きていけない幼子としてこの世に来られました。神は、マリアやヨセフがそうしたように、自分の救いの計画に人間が協力してくれるようにと求められます。
このクリスマスの神秘は、今もこの世界に働いておられる神の不思議さを物語っていると思います。忙しいわたしたちは、ゆっくり神のことを考えたり見つめたりする時間がとれません。神のほうに行けないわたしたちのところに、神のほうからきてくださったのです。
(沈黙)
「ある兵士の祈り」を唱えましょう。
ある兵士の祈り
大事をなそうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと、弱さを授かった。
より偉大なことができるように、健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして、富を求めたのに
賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。
人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるように、生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聴き届けられた。
神の意にそわぬものであるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りも、すべて適えられた。
わたしはあらゆる人の中で、最も豊かに祝福されたのだ。
神は、わたしが必要とすることを一番よく知っておられる。
願わくは、神は賛美され、祝福されますように…
(ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に刻まれている無名の兵士の作)
この詩は、アメリカの南北戦争時代に、盲目となった南軍兵士が残したものと言われています。彼は、"求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聴き届けられた。"と言っています。「求めること」と「願うこと」の違いは何でしょうか。神が人類を救うために、だれにも知られないような仕方で幼子を世界に送り出したクリスマスの神秘は、今もこの世界に働いていて、何かを語っています。
クリスマスの夜、幼子イエスのうちに示された神のいのち、愛、希望を、一人ひとりの心にいただくことができますように。そして、だれにも奪うことのできない自分の居場所を、イエスのうちに見いだすことができますように。
『祈りの歌を風にのせ』p.33「インマヌエル・アーメン」
これで今年度の「アレオパゴスの祈り」を終わります。
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