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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2010年3月6日


ボケ



2月17日の灰の水曜日から四旬節と呼ばれる季節に入りました。四旬節とは、カトリック教会で、イエス・キリストの受難と死を思い起こしながらイエスの復活のいのちの喜びにあずかる復活祭の準備の40日間を指しています。

もともとは復活徹夜祭に洗礼を受ける志願者たちの準備期間でした。ふさわしく洗礼の日を迎えるために、キリストとしっかり結ばれるように心を整えていく時期です。

すでに洗礼を受けている信者にとっても、四旬節は、復活祭をふさわしく迎えるために、キリストの十字架の道を思い起こし、自分の生き方を省みて改めるときです。それは単なる反省ではなく、心を神に向け直し、そこから神との関係・人との関係を新たに生きることです。この回心のしるしとして伝統的に大切にされてきたのが「祈り、断食、施し」でした。今では、「祈り、節制、愛の行い」と呼ばれています。

四旬節に勧められている「祈り・節制・愛の行い」とは、単なる宗教的なお勤めのようなものではなく、わたしたちが本当に神に心を向け、隣人に心を向けて生きることを目指しています。それは同時に、十字架の死に至るまで、父である神に信頼し、すべての人を愛し抜かれたイエス・キリストの歩みに従うことでもあります。このように四旬節とは、わたしたちが毎年新たな心で、神を信じ、人を愛する道を歩もうとする季節です。

今日は、キリストの慈しみのまなざしを思いながら、苦しみや困難の中にある人々の叫びに耳を傾けることができるよう、そして、行いをもって応えていける勇気を願い、祈りをささげましょう。

後ろでローソクを受け取った方から、祭壇にお進みください。今、それぞれに心にある願いをもって、ローソクと一緒に祈りをささげましょう。

これから、四旬節第四主日に読まれるルカによる福音書の中にある有名な放蕩息子のたとえを聞きましょう。

ルカ福音書 15.11~32

ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

そこで、彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。」

そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履き物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったからだ。」そして祝宴を始めた。

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」兄は怒って家に入ろうとせず、父親が出て来てなだめた。しかし兄は父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」
 

(沈黙)

二人の息子を持つ父親の話です。この父親がどんな人であるかということが、この話のポイントになっています。あるとき、突然弟の方がやってきて、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」というのです。ふつう遺産というものは、亡くなったときに、はじめて相続する権利があるものです。父親が生存中に分けるというものではありません。"父親に早く死んでください。もう待てません。"というようなものです。しかし父親は、いろいろと考えた結果、財産を分けることにしたのです。

ルカ福音書では父親は財産を二人に分けてやったと書いてありますので、もちろんお兄さんにも分けたのですが、お兄さんは、それを使わないで、お父さんと仕事を続けていました。しかし、弟のほうは、分けてもらった財産を全部金に換えて、遠い国に旅立ちました。そこで放蕩の限りを尽くしてお金を使い果たしてしまったのです。この若者は、お金があるし、気前もいいのでたくさんの友だちが集まってきたでしょう。ところが、お金はどんなにたくさんあっても、いつかは底をつく日が来ます。

そのときに、友だちは去って行ってしまいました。この息子はどん底の生活に陥ってしまいます。彼は、食べる物にも困り始めます。それで、ある人のところに行って仕事をもらうのですが、その人は、彼に豚の世話をさせました。

伝統的にユダヤ人は、宗教上、豚を食べてはいけませんでした。旧約聖書の掟にありますが、豚肉は汚れた動物とされていて、豚を飼ってそれを肉にするということはゆるされなかったのです。つまり、豚を飼うということは、外国だったということを意味しています。外国とは、神さまの祝福がない暗い闇の地、豚を飼うとは、どん底の生活を意味しています。豚を飼うまでに落ちぶれたということです。

空腹の中で、彼は我に返ります。わたしたちも、日常の中で、すべてうまくいっているときは、人生の意味などあまり考えません。でも、いつもうまくいくわけではありません。仕事に失敗したり、人間関係にいきづまったり、病気になったり。そのことが、ものを真剣に考えるきっかけとなることがあります。自分の生きている意味は一体なんだろうと、その意味を見いだすことができるなら、それは、とても大切な宝を見つけたことになるでしょう。

この息子の場合もそうでしょう。だれも助けてくれない、どん底の生活に陥って初めて、父親がどれほど自分のことを思っていてくれたか、ということがわかります。"自分をもてはやした友だちなど当てにならない。お金がなくなったとたんに皆去って行ってしまった。"彼は、自分を信頼してお金を全部与えてくれた父親の愛に気づきます。

父親のもとに帰るのは、たいへんな勇気と決断がいります。実際に父親の財産を使い果たしています。メンツもあるでしょう。いろいろと考えたと思います。その結果、彼は決心します。"わたしは天に対しても、お父さんに対しても罪を犯してしまった。もう息子と呼ばれる資格はない、でも少なくとも雇い人の一人にしてもらおう。"そう考えて父親のもとに帰っていきました。

さて、一方、父親は、自分の息子がどうしているだろうか。病気をしていないだろうか。幸せに暮らしているだろうか、と息子の身上を心配して、息子が出かけて行った方角を毎日眺めていたでしょう。ある日、とうとう息子を見つけます。"まだ遠く離れていたのに彼を見つけた。"とあります。みすぼらしい姿で現れた息子を見つけ"走り寄って首を抱き、接吻して"喜びます。

息子は、お詫びのことばを言いますが、終わらないうちに、父親は自分の僕に向かって「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい」と言って、最大のお祝いをして息子を迎えました。「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」これが父親の喜びでした。

(沈黙)

さて、これから物語の第二部が始まります。弟のお兄さんが現れます。この人はまじめで働き者にちがいありません。父親から財産を分けてもらっても、すぐに使ったりしなかったし、父親と一緒に毎日働いていました。彼は、夕方になっていつものように働きを終えて帰ってきました。でもいつもと様子が違います。音楽や踊りのざわめきが聞こえます。何か大きなお祝いが行われているのがわかります。そのようなお祝いだったら、何日も前から準備しますから、とうぜん自分が知らないはずはありません。その日は、お休みにしてお祝いにあずかっているはずです。

お兄さんは、僕に聞くと、弟さんが帰ってこられたことを知ります。兄は怒って家に入らなかった、と述べられています。父親が出てきてなだめます。お兄さんの言うことばがとても冷淡です。「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上をくいつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」あなたの息子という表現を使っていて、自分の弟とは言いたくない、自分とは関係がないという気持ちでしょう。

これに対して、父親の「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」というこのことばで物語の第二部が終わっています。

この物語は、「放蕩息子のたとえ」として知られていますが、主人公は放蕩息子ではなく、父親だと思われます。息子の身を案じて、帰ってきた息子のために無条件で喜ぶ、その父親こそ、イエスの言いたかった神さまのたとえになっていると思います。神さまはそういう方なのだと。一人の迷った者を案じて自分のところに帰ってくるのを待っておられる方。そして、帰ってきたら、何よりも喜んでくださる方であることを、この父親をとおして知らせています。

このメッセージは、わたしたちにも、当てはまります。どん底に落ちた生活をしていたとしても、この息子のように、「われにかえって」神さまの愛の深さに気づいたとき、どんなに恥ずかしくても、勇気をもってもう一度父のもとに帰っていくなら、必ず神さまは、喜んで受け入れてくださることをこの物語は呼びかけています。

イエスは、その神さまの姿を人々に語り、人々が神さまの心を受け入れるように、その呼びかけに応えるように人々に話されました。こうして人々は、神さまを知るようになりました。イエスに出会った人たちは、イエスをとおして神さまに出会ったのです。

放蕩息子

上の画像をご覧ください。この名画は、オランダの画家、レンブラント・ファン・レイン(1606-69年)が描彼の晩年の代表的な宗教画のひとつ『放蕩息子の帰郷』です。1766年、ロシアのエカテリーナ二世がサンクトペテルブルグにあるエルミタージュ美術館のために入手したもので、人物はほぼ等身大で描かれています。放蕩の末に父のもとへと帰還し、ひざまずく息子。その肩にやさしく手を置いている父親。光の巨匠として有名なレンブラントは、父と弟に光をあてて、二人を闇の中から浮かび上がらせています。もう一つの光は、兄にあたっています。

レンブラントは若くしてその才能を花開かせ,成功と名声とを手に入れました。しかし,その幸せもほんのわずかで、彼の人生には様々な不幸が押し寄せます。29歳で最愛の長男を亡くし,3年後には長女を,その二年後には次女を,そして間もなく妻を失います。レンブラントは、生後9ヶ月の次男ティトウスと共に取り残されます。しかしそれだけではありません。彼の人気は急落し,そのうえ多額の借金を抱えて破産宣告を受け,全財産を没収されます。彼は全てを失い、自分の命の終わりを予感しながらキャンバスに向かいました。そのような彼が、63歳ころに描いたのがこの作品「放蕩息子の帰郷」です。

父親の前にひざまずき,その胸に顔を押し付け,やつれた顔に,ボロボロの上着,そして長旅で擦り切れたサンダルを履く放蕩息子。汚れた足の裏には血がにじんでいるようで、彼の道中の困難が想像できます。髪も剃った姿には改悛の情がはっきりと表されています。彼は最後の最後で,富と名声,快楽の中には真理がない事を悟りました。そして,帰るところはただ一つ,自分を無条件に受け入れ,愛してくれる、父なる神の懐である事を悟り、魂に安らぎを経験したのです。

この絵の中には、父親と弟息子以外に、4人の人物が描かれています。父と同じ赤いマントを着け、無感動に立っているのは、怒りを抑えた兄の姿です。弟をじっと見つめています。兄の隣にいる人物と、顔を覗かせている女性、そして、このハガキでは見えにくいのですが、父親の後ろ、左上にも女性が描かれています。召使いではないかと思われます。この作品は、聖書の中の物語でありながら、現実に生きて、苦しみ悩み、涙する人々に深く語りかけます。暗闇の中、人々を照らす光は神の恩寵であり、すべてを受容したレンブラントの眼差しそのもののようにも感じられます。

レンブラントは自分自身の姿と放蕩息子を重ね合わせながら筆を走らせました。実際彼は、自己中心的で傲慢、執念深い行動におよんだこともよく知られています。しかし、彼がこの作品を描いたときは、多くの痛ましい落胆、失敗を味わっているときでした。その経験をとおして、彼の持っているすべてのものが外面的な光から内面的な光へと変わっていきました。

1663年、最愛の息子ティトウスも亡くなってしまします。その1年後、レンブラントも、貧しく、孤独な中で亡くなっていきました。全てを手に入れ、そして全てを失ったレンブランドが、人生の最後に描いた「放蕩息子の帰郷」は、彼の人生のメッセージとなって、時代を超えてたくさんの人々の心に、神に愛される子としてのわたしたちの在り方を語りかけています。

(沈黙)

ご一緒に祈りましょう。

「人を許すことを教えてください」

   主が、わたしたちを許してくださるように、
   わたしたちにも、人を許すことを教えてください。
   口先だけでなく、心から、すっかり許すことを教えてください。
   条件をつけたり限定したりせずに、完全に許すことを教えてください。

   わたし自身も、多くの人に許してもらわなければならないのです。
   どうか、謙虚な心で許すことを教えてください。
   何度でも、際限なく許す、忍耐深さを与えてください。
   主よ、人を許すことを教えてください。
   主が許してくださるように、広い心で許すことを教えてください。
      女子パウロ会 ジャン・ガロ著『愛のいのり』より抜粋

最後にイザヤの預言を聞きましょう。

   主に立ち帰るならば 主は憐れんでくださる。
   わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに許してくださる。
            イザヤ 55.7

これで「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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