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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2010年4月10日


百合



   今日こそ主の御業の日。
   今日を喜びび祝い、喜びび躍ろう。

   恵み深い主に感謝せよ。
   慈しみはとこしえに。
   イスラエルは言え。
   慈しみはとこしえに。

   主の右の手は高く上がり
   主の右の手は御力を示す。
   死ぬことなく、生き長らえて
   主の御業を語り伝えよう。

   家を建てる者の退けた石が
   隅の親石となった。
   これは主の御業
   わたしたちの目には驚くべきこと。

   今日こそ主の御業の日。今日を喜びび祝い、喜びび躍ろう。
   (詩編 118.24、1~2、16~17、22~24)

今年は、4月4日に復活祭を迎え、カトリック教会は、新しく洗礼を受けた兄弟姉妹とともに、主のご復活の喜びをたたえて祝っています。復活は、キリスト教の中心となる出来事です。キリスト教の信仰は、復活を信じることで、イエスの復活がなければ、キリスト教は存在しません。イエスの復活は、新約聖書の四つの福音書全部に書かれていますが、実際にその瞬間に起こったことを見た人は、だれもいません。イエスの復活が事実であったことは、復活したイエスに出会った弟子たちの証言によります。今晩の「アレオパゴスの祈り」は、イエスの復活について述べている空の墓の物語を中心に見ていきたいと思います。

イエスの復活の喜びをともに祝うため、わたしたちをここに集めてくださった神に感謝して、ローソクを祭壇にささげましょう。

これから、四旬節第四主日に読まれるルカによる福音書の中にある有名な放蕩息子のたとえを聞きましょう。

ルカ福音書 24.1~12

週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
 

(沈黙)

婦人たちが週の初めの日まで待っていたのは、安息日には何もしてはいけないというユダヤ教の掟があったからでした。イエスが十字架上で死んだのは安息日の前日の金曜日の夕暮れことでした。安息日は、日没から始まりますので、十分な遺体への埋葬の準備もできず墓に納めなければなりませんでした。ですから、優しい女性たちは、安息日が終わって、次の朝まだ暗いうちに出かけてイエスの遺体をきれいにしてあげようと香料をたくさん持って墓に出かけて行きました。

当時のユダヤの墓は、洞窟のような横穴を掘って作ったものでした。身をかがめてくぐるような小さな四角い入り口があって、中には小さな部屋がありました。その部屋の隅に段があって、そこに遺体を置きました。入り口には円盤型の大きな石を転がして、ふたをしました。婦人たちは、朝早く、大きな石をだれが動かしてくれるだろうか心配しながら話し合っていましたが、婦人たちが墓に着いたときには、すでにその石が脇へ転がしてあったと伝えられています。

墓に向かって足を運ぶ婦人たちは、希望をもって、胸をはずませてイエスのところへ行ったのではなく、おそらく悲しみと絶望に覆われていたことでしょう。イエスの傷だらけの身体を十字架から降ろし、墓に葬った婦人たちにとって、顔をそむけたくなるような現実に悲しみでいっぱいだったと思います。

婦人たちが墓に着き、現実に見たものは、空になった墓でした。中に入っても、主イエスの遺体がどこにも見当たりません。しかし、墓で出会った二人の人は、婦人たちに向かって言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」彼らは、復活という言葉を使っています。墓が空になってイエスの遺体がどこにもなかったということに対して、「イエスが復活した」と婦人たちは、すぐに推測することなどとてもできませんでした。それは、一つのしるしになっているにすぎません。マタイ福音書には、弟子たちが夜中に来て、イエスの遺体を盗み出したという、ユダヤ人の説明が伝えられいます。その当時、空になった墓の事実は、さまざまな説明がされたと伝えられていますが、敵対者の中にも反対する者はいなかったとされています。

ここで、イエスの墓が空になったということから、それを理解するために、当時のユダヤ人たちの思想を見てみましょう。当時のユダヤ教には、世の終わりに、神を信じて死んだ人々がすべて復活させられるという信仰がありました。しかし新約聖書の中に出てくるサドカイ派の人たちは、「死者の復活」を信じていませんでした。サドカイ派というのは、祭司たちや金持ちの階級の人たちから成っていて、非常に現世的な考えをする人たちでした。ローマの占領下で、権力者にゴマをすって、何かと自分の地位と財産を保とうとしていた人たちでした。

これに対して、ファリサイ派の人たちは、ユダヤ教の信仰を純粋に守ろうとしていた人々です。福音書の中ではしばしばイエスの敵対者として登場していますが、実際に彼らは、熱心に神の掟を守ろうとした人々でした。後にサドカイ派が滅びてしまったときも、ユダヤ教を現在まで指導した人々です。このファリサイ派の信仰は、終末にすべての人が神の前で復活させられ、神の裁きの前に立たされることを信じていました。

この信仰がユダヤ人たちの中で、一般に広がっていたので、イエスの復活という信仰が生まれてくる準備になっていたと思われます。

さて、話を空の墓に戻して考えて見ましょう。今日の福音では、イエス自身の姿はありません。イエスがいないということが語られています。それは、イエスのおられるところに向かわさせるきっかけを与えてくれていると思います。復活の主は、どこに行けば会えるのでしょうか。

福音書の二人の人の言葉が大切なヒントになっていると思います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

「そこで、婦人たちは、イエスの言葉を思い出した」と書かれています。「三日目に復活することになっている」この言葉を思い出したに違いありません。ここで大切なことは、“イエスの語られた言葉が生きている”と言うことです。イエスの語った言葉を今のわたしの現実の中に生きて働いている言葉として思い出すこと。このように感じられるなら、イエスは、今日もわたしとともにいて、いのちを与えてくださる方となるでしょう。

復活したイエス

(沈黙)

イエスの十字架の死につまずいた弟子たちは、復活したイエスに会って、神が決して見捨てることのない方だと、たとえ人間には惨めな失敗に見えるときにも、神の目からは違っていることをあらためて知るようになりました。神にとって本当に大切なことは、人の目にどれほど成功したかとか、立派であったかでなく、イエスのように、一人ひとりが、がどれほど愛を込めて神と兄弟たちを愛したかということです。弟子たちは、イエスの死と復活をとおして、自分たちも永遠のいのちへ導かれていることを悟りました。

『祈りの歌を風にのせ』p.40 「主はよみがえられた」

これから、スウェーデンに伝わる一つの物語をご紹介しましょう。

「生きているってどういうこと?」

あるうつくしい夏の日の正午のことです。森の中はしんと静まりかえっていました。小鳥たちは頭を翼の下に入れていましたし、動物たちもみんな一休みしていました。

そんなときです。アトリ(小鳥の一種)が ふと頭をもたげてききました。「生きているってどういうことかなぁ?」とてもむずかしい質問で、だれもがしんとして考えこんでしまいました。

一輪のバラのつぼみが開きかけていました。恥ずかしそうに一ひら、また一ひらと花びらを開き、はじめて受ける日光を大よろこびしていました。「生きているって何かになることだと思うわ」バラは言いました。

蝶は考えごとが苦手です。花から花へと元気よく飛びまわって、あっちでも、こっちでも、おいしい蜜をたっぷり吸っていました。「生きているって楽しいよ。日がいっぱい、当たってね」蝶は言いました。

地面の上でアリがせっせと働いていました。自分の体の十倍もの長さの藁くずをえっちらおっちら運んでいました。「生きているって、あくせく働くことだよ。汗だくになって、しこしこ働く。緊張のしどおしさ。」

生きているってどういうことか、ガヤガヤと議論が始まりそうでしたが、このとき、しとしとと雨が降りだしました。「涙だよ。生きているってことは結局、涙につきるのさ。」

森の上空に1羽のワシが大きく輪を描いて舞っていました。「生きているってことはね」とワシは言いました。「つねに高く、より高く舞うことだよ。」

夜になりました。パーティー帰りの一人の男がよろよろと通りかかりました。「生きているてなぁ、幸福をもとめては失望する-まぁ、その連続だな」と男はつぶやきました。

長い、暗い夜の後に夜明けがおとずれました。東の地平線がほんのりとうつくしく輝きはじめました。すると、夜明けは言ったのです。

「生きているというのは、永遠の始まりなのさ-このわたしが新しい一日の始まりであるように」
マーガレット・シルフ編『世界中から集めた深い知恵の話100』女子パウロ会刊

主の復活の主日から復活節の50日間、毎日唱えられるアレルヤの祈りをキリストの母である聖母マリアとともにご一緒に祈りましょう。

『パウロ家族の祈り』 p.25 「アレルヤの祈り」

   主が、わたしたちを許してくださるように、
   神の母聖マリア、お喜びびください。アレルヤ。
   あなたに宿られた方は。アレルヤ。
   おことばどおりに復活されました。アレルヤ。
   わたしたちのためにお祈りください。アレルヤ。
   聖マリア、お喜びびください。アレルヤ。
   主はまことに復活されました。アレルヤ。

   祈りましょう。
   神よ、あなたは御子キリストの復活によって、
   世界に喜びをお与えになりました。
   キリストの母、聖マリアにならい、
   わたしたちも永遠のいのちの喜びを得ることができますように。
   わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

これで「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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