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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2010年6月5日


バラ



   すべてのものがあなたを讃えております、主よ。
   話をするものたちも、声をもたないものたちも。
   すべてのものがあなたに敬意を表しています。
   考えるものたちも、考えをもたないものたちも。
   万物の願いとすべてのものの叫びが、あなたに向けられています。
   在りと在るものは、祈りであり、あなたの天を読みうるものはみな、
   あなたへの沈黙の歌を差し上げるでしょう。
   生きながらえるものはみな、あなたの中に生きながらえます。(略)

   キリストの御父よ、聞いてください。わたしの今日の祈りを。
   あなたのすばらしい御言葉をあなたのしもべに、本当に聞かせてください。
   あなたの知りたもうキリストが、わたしの歩みを、あなたに向かって
   導いてくださいますように。
   キリストこそは、わたしたちを、あらゆる不幸から、解放してくださいました。
   (ナジアンズの聖グレゴリオ『古典の祈り』) 
 

今晩のアレオパゴスの祈りは、「祈り」についてイエスさまが語ってくださっていることに注意して耳を傾けたいと思います。祈るためにここに集まっているわたしたちに神さまご自身がわたしたちの心の目、心の耳を開き祈りを教えてくださいますように。そして、神さまの語りかけや働きかけに敏感に気づいていくことができますように。

また、わたしたちはさまざまな人とつながっていることを感じながら、次の意向で、ともに祈りをささげましょう。

* 「どうしてこんなことが」と困惑して祈ることができずにいる人々のために。
* 信仰を公にできず、隠れて信じている人々、信仰のゆえに捕らえられている人々のために。
* 民族や宗教の違いによって差別され、人権を無視されていることを、戦うことによってしか自分たちの生きる道を見出せないでいる人々のために。
* 突然の事故や大地震などの災害で、別れの時を持てないまま、愛する人の死を受け入れなければならなかった人々のために。
* そして、ここに集うわたしたちお互いのために、また、心にかかる人々のために、祈り合いましょう。

それでは、ローソクを祭壇にささげましょう。祭壇の上のハガキをお取りになって席へお戻りください。

新約聖書の中には、イエスが祈っておられる場面がたくさんあります。弟子たちは祈るイエスをとても身近に感じていました。自分たちもイエスのように祈りたい、しかし、何をどう祈ったらいいのかわからない。そんな思いがいつも彼らの心の底にあったのでしょう。次のように記されています。

イエスはあるところで祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人が、イエスに「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」と言った。そこでイエスは言われた。「祈るときは、こう言いなさい。

   『父よ、み名が崇められますように。
   み国が来ますように。
   わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
   わたしたちの罪を赦してください。
   わたしたちも自分に負い目のある人をみな赦しますから。
   わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』
               (ルカ11.1~4

 

イエスは祈るとき、自分自身のことから始めるのではなく、まず父のこと、つまり神のことから始めなさいと言われます。自分の関心事ではなく、神の国を求めよ、と言われます。イエスの祈りは生涯そうであったように、本質的に父なる神を中心とした祈りでした。祈りは神のことから始める。これが、イエスの教えです。イエスは、自分が何をするべきなのか、神が何を望んでおられるのかを祈りの中で見つけていきました。そして、父なる神からそれを行う力をいただいていました。イエスはまた、自分のためにも祈りなさいと言われます。イエスが教えてくださったこの祈りの中で、自分のためには、日々の糧、霊的な力、罪の赦しの三つを願うように教えています。

イエスが弟子たちに教えたこの祈りは、「主の祈り」と呼ばれて、現在までキリスト教会の中でいちばん大切にされています。

それでは、ご一緒に「主の祈り」を唱えましょう。初めての方は、ハガキの裏にある「主の祈り」をご覧になってお唱えください。

(沈黙)

イエスは弟子たちに祈りを教えたあと、父なる神に信頼して、祈り続けることを教えられました。ルカ福音書からその言葉を聞きましょう。

ルカ福音書 11.9~13

「わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供にはよいものを与えることを知っている。まして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
 

(沈黙)

わたしたちは、たびたび自分の心配で頭も心もいっぱいになってしまいます。イエスは信頼をもって求めなさいと言われるのですから、わたしたちの差し迫った願いを神に祈ることは、よいことです。 しかし、はたしてよいものが何であるかは、そのときにはわからないことがしばしばあります。わたしたちにとっていちばんよいもの、必要なものは、必ずしも、わたしたちが願っていることと同じではないかもしれません。天の父はそれをよくご存じです。ちょうど父親が自分の子供が欲しがっていても、それが悪いものであるなら決して与えはしないでしょう。願う前からわたしたちの必要を知っておられる天の父は、一人ひとりのためにいちばんよく計らってくださっています。聖霊を求めることがいちばんよいと言われます。聖霊は、わたしたちに神の息吹を与え、何をどう祈ったらよいかわからないわたしたちに代わって取りなしをし、天の父との交わりを持つことができるように助けてくださいます。そのとき、父なる神は、わたしたちにとっていちばんよいものを与えてくださいます。

(沈黙)

『カトリック典礼聖歌集』No.327「求めなさい」① ② ③

だれかが願いをかなえてほしいと、イエスのもとに来るとき、イエスが決まって言われる言葉があります。「わたしにこれができると信じるか」、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉です。福音書の中から、そのような箇所を読んでみましょう。

ルカ福音書 18.35~43

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って、もの乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫んだ。先に行く人々が、叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をして欲しいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見て、民衆は、こぞって神を賛美した。
 

信仰はイエスにとって、譲ることのできない条件でした。もしあなたが信じるならすべては可能になる。しかし、信じないなら、わたしはあなたに何もしてあげられない。イエスはいつもご自分のいやす力、治す力、奇跡を行う力があらわされるために、信じることを求められました。イエスの故郷ナザレでは、ほとんど奇跡を行うことができなかったのは、人々に信仰がなかったからだとイエスは言われます。わたしたちは日々の生活の中で、いろいろな喜びや驚き、苦しみや不安や恐れを感じます。

うまくいくこともあれば、失敗することもある。人との関係でいさかいを起こすこともあります。こうした喜びや悲しみ、苦しみの一切は、すべて過ぎ去っていくものです。この過ぎ去っていくものの背後にある、決して過ぎ去らないもの、永遠のものにじっと目を注いで、日々の喜びと悲しみを貫いて、真に価値あるものを見つめたいと思います。その永遠のものを見つめる目を、「信仰の目」と呼びます。この信仰の目は、人間が自然の心情のままに見る見方とは違って人生全体に意味を与えるものです。いったい自分は何に導かれて歩んでいるのか、何を基準として生きているのかということです。わたしたちの人生の途上で出会うさまざまな出会いや、人とのかかわりをどのような目をもって見ているでしょうか。どのような光に導かれているでしょうか。「主よ、見えるようにしていただきたいのです」と嘆願したこの盲人の願いは、実は、わたしたちの祈りでもあるのではないでしょうか。

(沈黙)

次にドイツに伝わるお話をご紹介しましょう。

兄が払った犠牲
15世紀のドイツのある小さな村に、18人の子持ちの一家が住んでいました。食べていくのがやっとというみじめな生活でしたが、18人のうちの2人の兄弟が同じ夢を持っていたのです。2人とも絵を描くことが好きで、また上手でした。けれども貧しい暮らしの中から絵の勉強をするのはたいへんです。

2人は相談して解決の方法を考えました。コインを投げて負けた方が近くの鉱山で働いて、もう一人が美術学校で勉強するための資金をつくる。美術学校での勉強を終えたら、今度は彼が絵を売るか、それが無理ならやはり鉱山で働いて、もう一人のために資金をつくるというものでした。

そんなふうに相談がまとまって一人は美術学校に入り、もう一人は危険な鉱山で働いて、弟の学資をかせぎました。4年たったとき、若い画家は故郷の家族のもとに帰ってきました。家族は彼の帰郷を祝ってみんなでごちそうのテーブルを囲みました。画家は立ち上がって、すべては兄のおかげだと感謝の乾杯をしました。「ありがとう、アルベルト、今度は兄さんが勉強する番だ。」

アルベルトは頬に涙をつたわらせながら座っていましたが、頭を振って、「だめだ、もうだめなんだよ」と何度も繰り返しました。

やがてアルベルトは立ち上がって涙をふき、長いテーブルを囲む家族を見渡し、両手を前にさしだして低い声で言いました。「アルプレヒト、もう遅いんだよ。おれにはもう絵の勉強はできない。4年の鉱山での労働の結果がこれだ。どの指の骨も一度は砕けている。それに関節炎で、おまえに返杯しようにも、ワインのグラスもまともに持てないほどだ。絵筆なんて、とても持てないよ。」

祈る手


その後、兄のアルベルトが自分のために払ってくれた犠牲に対する思いをこめて、アルプレヒト・デュラーは彼の節くれだった手を描きました。てのひらを合わせているその手、痛ましく曲がった指が天を指していました。デュラーはこの絵に『手』というさりげない題をつけましたが、人々はこの傑作にこもる力に打たれ、それを新しい名で呼びました。『祈る手』それは兄への感謝と愛のささげ物でありました。
女子パウロ会刊行 『深い知恵の話100』

『カトリック典礼聖歌集』No.60 「やさしい目が」① ② ③

最後に、小学校一年生の女の子がつづった詩をご紹介しながら、今晩のアレオパゴスの祈りを閉じたいと思います。

わたしの心
   わたしの心の中で わたしが一人のとき し~んとしている。
   そして こんなときに 心の中で小さな声がする。
   すごく小さな声なので 少ししか聞こえない。
   やっぱりわたしの心の中に 神さまがいらっしゃる。

   わたしは うれしい。とても うれしい。
   ほら みんなも 一人になったとき しずかに耳をすまして 聞いてごらん。
   ねっ! やっぱりみんなの心の中でも 小さな声が聞こえるでしょう。

   イエスさまが 十字架にかけられたというお話があるけれど
   やっぱりイエスさまは 死んではいないのよ!

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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