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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2011年7月2日


かきつばた



  主に従う人よ、主によって喜び歌え。
  主を賛美することは正しい人にふさわしい。
  琴を奏でて主に感謝をささげ
  十弦の琴を奏でてほめ歌え。
  新しい歌を主に向かって歌い
  美しい調べと共に喜び叫びをあげよ。

  主の御言葉は正しく
  御業はすべて真実。
  主は恵みの業と裁きを愛し
  地は主の慈しみに満ちている。
  御言葉によって天は造られ
  主の息吹によって天の万象は造られた。
            (詩編33.1~6)

今晩も、一人ひとりの心の中にある思い、自分のこと、家族のこと、友人のこと、世界のこと、祈りを必要としている人々のことを思いながら、神さまの手の中にすべてを委ねて祈りましょう。3月の東日本大震災から4ヶ月を迎えようとしています。家族や友人たちとの別れを語ることすらできずに亡くなられた方々、いまだに行方不明の方々が主のみ手の中で安らぎを見いだすことができますように。被災された方々の重荷が少しでも軽くなり、一日も早く安心して暮らせる日が来ますように。

ここに集められたわたしたち、お互いのためにも祈り合いましょう。後ろでローソクを受け取った方から、祭壇にお進みください。祭壇の上のハガキをお取りになって席にお戻りください。

7月3日は、年間第14主日を迎えます。読まれるマタイ福音書は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエスがともに、わたしたちの重荷を背負ってくださっていることを語っています。何千年たっても、労苦する人々を招き続け、苦しむ人を愛の力で守ってくださるイエスを見つめていきましょう。お祈りの後半では、ルカ福音書の中にある「マルタとマリア」のお話を読んでみたいと思います。聖マルタの記念日は、7月29日です。

マタイによる福音書11.25~30

そのとき、イエスはこう言われた。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者の他には、父を知る者はいません。 疲れた者、重荷を負っている者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

(沈黙)

イエスのメッセージは必ずしもすべての人に受け入れられたのではありません。ここでは「知恵ある者や賢い者」がイエスを受け入れない人、「幼子のような者」がイエスを受け入れる人であるとイエスは、言われています。当時の知恵や賢さは律法に関する知識の有無でした。幼子は「無知な者・無能力者」の代表であり、「幼子のような者」とは貧しく無学な人々のことを指していました。世間で評価され、尊敬されているファリサイ派のような人がイエスを受け入れず、世間的な評価を受けていない小さな人々がイエスを受け入れたのが現実だったのです。イエスの活動は人間的に見ればこの点で成功しなかったと言えるかもしれません。しかし、イエスはこのことの中に神の計画の実現を見ました。

「天地の主である父よ、・・・」これはイエスの祈りです。人間的には失敗と見えるような現実の中にイエスは神のご意思があるのを見ます。それは人間的な見方ではなく、祈りの中で見いだした神の眼差しによる見方だと言えるでしょう。「子が示そうと思う者」という言葉は、イエスご自身の思いも何より「幼子のような者」に向けられていたということを表しているのではないでしょうか。祈りの言葉よりも、祈りの中でイエスが見いだした確信だと言えます。

「疲れた者、重荷を負う者」を「休ませてあげよう」というイエスの言葉は、現代に生きるわたしたちにとって、まさに必要としている言葉ではないでしょうか。現代人の多くは疲れています。身体を休ませたいという以上に、心からほっとしたいのです。

「柔和」「謙遜」について見てみましょう。「柔和」「謙遜」というと心の状態を考えがちですが、イエスのこの言葉は「わたしは実際に貧しく、身分が低い」というニュアンスを持つ言葉でもあります。そう考えるとイエスの招きをもっと身近に感じることができます。イエス自身が貧しく、身分が低いから、貧しく身分の低い人は安心してイエスに近づくことができるのです。「わたしに学びなさい」は「わたしの弟子になりなさい」と言いかえることができます。当時のファリサイ派の律法学者にも弟子がいました。そういうラビの弟子になるのは難しいことでしたが、イエスの弟子になるのに何の資格も学力もお金もいらないのです。

「軛(くびき)」は荷車や農具を引かせるために、二頭の牛やロバを横につなぐものです。「軛」も「荷」も「重荷」のイメージですが、イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。わたしたちにとってイエスの軛を負うとは、自分の人生においてイエスと結ばれていることを望み、イエスを信じて生きるということではないでしょうか。イエスが担っておられる「十字架」は、とても軽いとは思えません。しかし、わたしたちの軛をイエスの軛に合わせることによって、イエスがともに担ってくださるからわたしたちは、「軽く」なるのです。それは、イエスだけができる救いの業です。イエスには、人間の重荷や労苦を支え、愛する心と解決していく力があるからです。同じマタイ福音書の中で、イエスはファリサイ派の人と律法学者を批判して、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」と言われています。イエスの生き方はその正反対でした。イエスは、わたしたちに向かって、今日も「わたしがあなたの重荷をともに担おう」と呼びかけてくださっています。そのイエスの招きを今のわたしたちは感じ取ることができるでしょうか。

「来なさい、重荷を負うもの」

ここでイエスがともに担ってくださっているイメージを表した美しい詩をご紹介しましょう。

足あと (FOOTPRINTS)

  ある夜、わたしは夢を見た。
  わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
  暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
  どの光景にも、砂の上にふたりの足あとが残されていた。
  ひとつはわたしの足あと、もう一つは主の足あとであった。

  これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
  わたしは、砂の上の足あとに目を留めた。
  そこには一つの足あとしかなかった。
  わたしの人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
  このことがいつもわたしの心を乱していたので、
  わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

  「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
  あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
  わたしと語り合ってくださると約束されました。

  それなのに、わたしの人生のいちばんつらいとき、
  ひとりの足あとしかなかったのです。
  いちばんあなたを必要としたときに、
  あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
  わたしにはわかりません。」

  主は、ささやかれた。
  「わたしの大切な子よ。
  わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
  ましてや、苦しみや試みのときに。
  足あとがひとつだったとき、
  わたしはあなたを背負って歩いていた。 」

                マーガレット・F・パワーズ 松代 恵美訳

次に、ルカ福音書に書かれている、「マルタとマリア」のお話を聞きましょう。

ルカによる福音書 10.38~42

一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった。するとマルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのため せわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩んでいる。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

マルタとマリア


イエスと弟子たちが、ベタニアの村に住むマルタとマリアという姉妹の家をお訪ねになったときのことです。マルタとマリアはイエスの訪問を心から喜びました。マルタは、イエスと弟子たちのもてなしのためにせわしく働きました。一方、マリアはイエスの足もとに座り、イエスのお話に熱心に耳を傾け、聞き入っていました。

ところが、この平和で恵みに満ちた家に、ざわめいた空気が流れ始めます。マルタは、マリアが座っているばかりで何も手伝ってくれないことを不満に思い始めました。マルタは、マリアを手伝わせようとして、度々「マリア、これをしてちょうだい」と頼んだことでしょう。しかし、マリアはお姉さんをほったらかしにして、イエスの側に座り込んでしまいます。このマリアの態度に、マルタの気持ちは我慢ができないほどいらだってきます。そして、ついにイエスに、その不満をぶつけてしまいました。

「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 マルタは、きっとイエスが自分の味方になって、マリアをいましめてくださると期待したに違いありません。ところが、イエスはマリアではなく、マルタに向かって「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言われました。

マルタは、イエスが自分の味方になってくださると思っていましたから、このイエスの予想外の言葉にガッカリしたでしょう。マルタはイエスに喜んでいただこうとして一生懸命に働いたのに、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と、イエスに注意されてしまったのです。イエスはいったいどこを見ておられるのでしょうか。マルタのことが書かれているところをもう一度聞いてみましょう。

「一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」とあります。イエスがベタニアという村に着かれると、すぐにマルタが出てきてイエスを歓迎し、家の中に迎え入れました。しかし、そのとき、マリアが一緒に出てきたとは書いてありません。おそらく、マリアは家の中にいたのだと思います。

ヨハネによる福音書に、同じようなことが記されています。ルカによる福音書の中には、登場しませんが、マルタとマリアにはラザロという兄弟がいました。そのラザロが重い病気にかかり、ついに亡くなってしまうのです。そこにイエスが来られます。そのとき、真っ先に出迎えたのは、やはりマルタであったことが、書かれています。そこでもマリアは家の中に座っていたと書かれています。

マルタとマリアの違いは信仰の問題ではなく、性格の違いだと思います。もてなしに忙しくしていたマルタよりも、足もとに座ってイエスのお話を聞いていたマリアの方が信仰深かったとは言えません。マルタは喜びの日にも悲しみの日にもイエスを出迎えることを忘れませんでした。マリアはイエスが来られたときばかりではなく、いつも家の中に座っていることが多かったと思います。

マルタとマリアの生活は、何かにつけしっかり者のマルタがマリアのお世話をしてきたのでしょう。しっかり者のマルタがいるからこそ、マリアは主の足もとに座っていられたのです。ただ、普段なら、おっとりとした性格のマリアを温かい目で見守る優しいお姉さんのマルタでしたが、このときばかりはそうはいかなかったようです。何でもてきぱきと仕事をこなすマルタが悲鳴をあげるほど忙しい食事の準備とは、いったいどういうものだったのでしょうか。

イエスの時代、庶民の食卓は簡単でとても慎ましいものでした。大麦のパンと水、オリーブ、果物、また塩だけで味付けられたイナゴが日常的な食事のメニューでした。庶民的でありながら、もう少し上等になると魚が加えられました。

しかし、その他にユダヤ人たちは宴会や祝宴を好みました。それは食事をともにするということが何よりも家族や仲間の絆を強め合うと考えていたからでした。そういう宴席では、驚くほどたくさん飲み食いしたようです。聖書にも、婚礼の祝宴で用意したぶどう酒が足りなくなってしまったという話が出てきますが、それはこのような宴会好きのユダヤ人だからでしょう。

そうなると準備をする方はたいへんです。マルタは、イエスと12人の弟子たちが食べたり、飲んだりして、心おきなく楽しい時間を過ごしていただきたいと願って、かなり張り切って食事の準備をしたのではないでしょうか。食事だけではなく手や足を洗う水の準備や、宿の準備まで、イエスに喜んでいただこうとすればするほど、マルタの頭の中にやらねばならないことがたくさんあったと思います。それが余計なことなのだと、イエスは言われたのでしょうか。イエスが望んでおられたのは、マルタのように食卓のことで思い煩うことではなく、マリアのように足もとに座ってじっと御言葉に聞き入ることなのだとことなのでしょうか。そうではないと思います。聖書には食卓の準備ということが、とても大切な意味ある働きであるということが記されています。

話は変わりますが、旧約聖書の中に、アブラハムが三人の旅人のために忙しく食卓を調えたというお話があります。「アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。『早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。』アブラハムは牛の群れのところへ走っていき、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。

アブラハムが、マルタにも引けを取らぬほど忙しく立ち働いて、三人の旅人をもてなしている様子が伝わってきます。実は、この三人の旅人の正体は天からの御使いでした。アブラハムはそうとは知らずに御使いをもてなしたと書かれています。そして、それがアブラハムと神さまとの交わりへと発展していきます。

また、イエスご自身も食事を準備してくださいました。五つのパンと二匹の魚を五千人の人々に分かち与えて満腹させる奇跡も行われています。また、復活された主が、弟子たちのために魚を焼いて、朝食の準備をしてくださった話も記されています。

このように、食事というのは、ただ飲食を用意すれば良いものではないことがわかります。食卓を囲んで、アブラハムは天からの御使いたちに奉仕をしました。食卓を囲んで、イエスは人々を祝福され、また弟子たちを教えられました。今のわたしたちにとっては、そのような霊的な食事の頂点にあるのがミサです。ミサというのは空腹や渇きを満たす食事ではありません。イエスの命がわたしたちの命として与えられ、イエスの霊的な交わりが実現する食事です。しかし、食事の持つ霊的な意味は、ミサだけにあるのではなく、家庭の食事にも、祝宴や宴会の食事にもあるのです。


マルタの妹マリアイエスとマリア


それでは、もう一度、イエスの言葉を思い出してみましょう。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

これは、イエスが食事の準備に立ち回るマルタを注意し、御言葉に聞くマリアをほめていることではないようです。マルタとマリアの違いは性格の違いです。そして、マルタのしようとした食事の準備も、大切な奉仕です。そうだとしたら、マルタの問題は何でしょうか。それはマルタの心の中に湧き起こったマリアに対するいらだで、「なぜ、マリアは何もしないのか」という不平不満です。

そのような不満は、マルタが自分の能力を超えたことをしようとしていることに原因があったのではないでしょうか。人には、それぞれ神さまに与えられた才能があります。

「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」わたしたちは、あれもこれもしなくてはならないというあせりに駆られることがあります。しかし、それが自分の能力を超えているとき、自分には何もできないと思ってしまったり、だれも自分を助けてくれないとひがんでしまったりします。

しかし、神さまは人間をひとりで生きるものとしてではなく、互いに支え合って生きる者としてお造りになりました。どんな仕事も、自分ひとりですべてを成し遂げるのではありません。必ず、そこに陰となり日向となって支えてくれる働きがあります。マリアはしっかり者のマルタに支えられていました。同じようにマルタも、マリアによって支えられています。マルタはそのことを忘れてしまっていたのです。

イエスが言われる、「必要なことはただ一つだけである」というのは、「あなたがたは自分に与えられた分をしっかりと果たしなさい。それで良い。」の意味ではないでしょうか。

人間は、多くのことに心を砕き、思い煩います。真面目に人生を考え、一生懸命に生きようとするならば、必ずいろいろな問題や心配事に悩まされることになります。生きることは、いつもマルタ的なものです。このようなマルタ的な人間から見ますと、あまり具体的な行動を起こさないで、信仰とか、祈りとか、聖書とか、そういうことばかり言っている人、つまりマリア的人間がもどかしく思えることもあります。

しかし、イエスはマリア的人間に向かってマルタ的な人間になれとは言われないでしょう。マルタ的な人間に向かってマリア的になれとも言われないのです。マルタはマルタらしくあることによって、マリアはマリアらしくあることによって、神さまにお仕えすることが大切です。お互いを批判することでなく、互いに支え合う人間になることが、イエスがマルタにわかってほしかったメッセージではないでしょうか。

祈りましょう。

  師イエス、あなたのために整えた、わたしたちの心を訪れてください。
  あなたが、ベタニアの敬虔な弟子、マルタとマリアのもとで受けられた
  慰めと償いを、わたしたちもささげます。
  あなたを迎える喜びにつつまれたわたしたちに、
  マリアが味わっていた親しい一致の恵みを
  マルタの忠実、勤勉な精神を与えてください。
  あなたがベタニアの家族を愛し、清められたように、
  わたしたちの家族を愛し、清めてください。
  そして、わたしたちがあなたの深い愛にこたえることが
  できるようにしてください。

これで、今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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