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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2011年11月5日


紅葉



11月に入り、今年も残すところあと二ヶ月となりました。カトリック教会の典礼の暦は、11月20日、“王であるキリスト”の祭日の週をもって一年を終了します。そしてキリストの降誕を祝うクリスマスの四週間前から新しい年が始まります。今晩のアレオパゴスの祈りでは、“王であるキリスト”の祭日に読まれる福音をご一緒に黙想しながら、祈ってまいりましょう。

ルカによる福音書は、イエスとともに十字架につけられた二人の犯罪人が登場します。一人の犯罪人は、十字架から降りることができないイエスをののしりますが、もう一人は、十字架のイエスに神の働きを見えています。二人とも同じような罪を犯した人物でした。しかし、一方は天国に入り、一方は入れませんでした。回心した方は、幸いにも人生の最後の最後にキリストと出会い、キリストとともに神の国に入ることができました。 この犯罪人を回心させた、同じみことばが、今晩ここに集うわたしたちの心に光と救いをもたらしてくださるように祈りましょう。

わたしたちの心にかかるすべての人、出来事、悩み、苦しみ、感謝などを携えて、祭壇にローソクをささげましょう

ルカによる福音書 23.35~43

「民衆は立って見つめていた。議員たちもあざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札が掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』
そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。

今、朗読された福音書は、「天国どろぼう」のエピソードです。イエスの息をひきとる瞬間のエピソードであるだけに、イエスが生涯をかけて伝えようとされたメッセージのすべてがここにはあり、凝縮されていると言るでしょう。

イエスが生涯をかけて実現しようとされたこと、それは、罪人との出会いであり、罪人をとりもどすことでした。じつに、今日の福音の場面は、イエスの生涯の終わりを飾るのに、もっともふさわしいものです。罪の中に生き続けてきた二人の人間と、罪を一度も犯すことのなかったイエス。一人の犯罪人は言っています。「我々は、おこなったことの報いを受けたのだから当然だが、この人は何の悪事もしなかった。」

同じように十字架につけられながら、イエスと二人の男たちほど、それぞれの生きてきた世界が異なるものはないと思います。二人は、まわりの人々の幸福を破壊し、平和を乱し、悲しみの原因になってきた男たちです。それに対して、イエスはよろこびの使者であり、生命の創造者です。彼らがエゴイズムと欲望のかたまりだとするなら、イエスは愛そのものです。二人の人生がやみに向かい、滅びにつっぱしるものであるのに対して、イエスの人生は光と希望に向かったものです。

まったく別の歩み、まったく正反対の生き方をしてきた者たちが、十字架の上で出会います。同じ十字架でありながら、その歩んできた道がちがうように、それを受けとめる心もまったく異なります。二人の男たちにとって、十字架は絶望であり、死です。イエスの十字架は、やみを照らす輝きであり、罪のゆるを与える愛があふれています。

福音書を見えれば明らかなように、イエスを拒む人々と受け入れる人々がいたように、この最後の瞬間にも、拒む者と受け入れる者とがいます。「あなたは、キリストではないか。それならば、自分と我々を救え」自分の人生に対する反省がありません。自分の欲望、自分の世界しか見えないエゴイストです。せっかく光と隣り合わせになりながら、光に心を開くことができないまま、この人は人生を終えることになります。

もう一人の男は、こう叫びます。
「まだ、神を恐れないのか。我々はおこなった報いを受けたのだから当然だ」彼は、自分の人生の罪を認めます。自分の無の自覚。それが、彼に光への道を開きます。やみから光へ、絶望から希望への転換のために、何も特別なことは必要ではなく、善行も功徳もいりません。自分の罪とその汚れに目覚めるというだけでよいのです。あとはイエスがひき受けてくださいます。

イエスと二人の囚人

(沈黙)

ルカ福音書に記されているこのエピソードのすばらしさは、ここにあります。人生をやみの中に生き続けてきた人間が、十字架の上で苦しみを耐える以外何もできなくなってしまった男が、ただただ、心を転換し、へりくだることによって、救いを得るのです。ここに、汚れた人生しか生きられないわたしたちに向けられた希望があります。

イエスは、ここで、男の過去の人生のつぐのいを求めていません。過去を責めることもしません。彼の一生が、罪と汚れにおおわれたものであるということを、彼以上に深く知りながら、それを責めず、逆にそれをおおい、新しいよろこびを与えてくださるのです。それがゆるしなのです。過去を塗りかえることのできない人間にとって救いの道は、ゆるだけです。

イエスの十字架は、わたしたちの過去をゆるし、わたしたちの罪の責任をかわりに背負うものです。十字架の上で楽園を保証されたこの男の救いは、イエスのあがないの初穂、最初の実りと言ます。そして、その後、何世紀にもわたり、イエスと出会い、救いを求める人々に、救いのあり方を示すものとなります。
(『神のやさしさの中で』より抜粋 森 一弘著 女子パウロ会)

に残っているところにとどまり、しばらく祈りましょう。

『典礼聖歌集』 No.388 ① ③

ここで、ロシアに伝わるトルストイの民話をご紹介しましょう。

石の伝説
二人の女が賢者のところに行って教えを請いました。一人は自分をとても罪深い女だと思っていました。若いころに夫を裏切ったことがあるのをたえず思い出して、自分を責めていました。

もう一人の女はいつもおきてを守り、正しい道を歩んできました。とくに恐ろしい罪を犯したことがなく、良心に責められることもありませんでしたから、自分にしごく満足していました。

賢者はそれぞれの女に、それまでの一生についてたずねました。一人は、犯した罪を告白して泣きました。とてもゆるされるものではないと絶望していたのでした。もう一人は、とくに何の罪も思い当たらないと答えました。 賢者は、一人目の女に、「神の娘よ、できるだけ大きな、重たい石を探し出して、ここに持ってきなさい」と言いました。「ようやっと運べるくらいの石を一つ。」

「あなたは」と賢者は何も思い当たらなかった、もう一人の女に言いました。「できるだけたくさんの石を拾って、ここに持ってきなさい。なるべく小さい石をできるだけたくさん」二人の女は賢者の言いつけを果たしました。一人目の女は、ものすごく大きな石を一つ、持って戻りました。二人目の女は、袋に一杯、小石を集めて戻りました。

賢者は二人の女の持ってかえった石を眺めて言いました。「今度は、あなたたちが持ってきた石を、もとあった場所に戻してくるのだ。間違えないように。残らず戻したら、そのうえで、またわたしのところにおいで。」

二人の女は賢者の言いつけどおり、石を戻しに行きました。一人目の女はその大きな石のあった場所をちゃんと覚えていて、それをその穴にもとどおり、はめこんで戻りました。けれども二人目の女はそれだけたくさんの小石がどこにあったのか、思い出すことができませんでした。それで賢者の言いつけを果たすことができずに、すごすごと戻りました。

賢者は言いました。「わかったかな? わたしたちの罪もこの石のようなものなのだよ。大きな、重たい石をもとの場所に戻すことはやさしい。どこで見つけたか、ちゃんと覚えているからだ。しかしこうした小石がどこにあったか、いちいち覚えているなんて、とてもできることではない。」

一人目の女に賢者は言いました。「あなたはあなたの罪をはっきり心にとどまている。」夫の叱責も、あなた自身の良心の痛みも、いまだに意識している。それによって、あなたは謙遜を学んだ。だから、あなたの罪の大石はあなたの手のもとから取り除かれたのだよ。」

二人目の女に賢者は言いました。「たくさんの小さな罪を犯したあなたは、いつ、どこで、罪を犯したか、覚えてさえいない。だからあなたは悔い改めることができないわけだ。ちっぽけな罪を犯すのに慣れて、ほかの人の罪をさばきながら、自分の罪にますます深くひたっている。小石のような、小さな罪から自由になることができなくなっているのだよ。」
『深い知恵の話100』マーガレット・シルフ編 女子パウロ会

『祈りの歌を風にのせ』P.35 ⑥ ⑦ ⑧

結びの祈り
栄光の王であるキリスト、あなたは、自分の罪を認め、へりくだる者に、楽園を約束なさいました。どうかすべての人の心を照らしてください。造られたすべてのものが、あなたのうちに、一つに集められ救いの神秘にあずかることができますように。
アーメン。

これで、今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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