アレオパゴスの祈り
アレオパゴスの祈り 2012年3月4日
2月22日の「灰の水曜日」から四旬節が始まりました。四旬節とは、カトリック教会で、イエス・キリストの受難と死を思い起こしながらイエスの復活のいのちの喜びにあずかる復活祭の準備の40日間を指しています。
もともとは復活徹夜祭に洗礼を受ける志願者たちの準備期間でした。ふさわしく洗礼の日を迎えるために、キリストとしっかり結ばれるように心を整えていく時期です。
今年は、4月8日に神の子イエスが、死の闇に打ち勝ち、復活のいのちに入るご復活を祝います。今晩の、「アレオパゴスの祈り」は、弟子たちとともに別れの食事をした後の出来事、イエスが、エルサレムの郊外にあるゲッセマネの園で、夜を徹して苦しみの中で祈った姿をご一緒に見ていきたいと思います。
そして、3月11日は、東日本大震災から一年を迎えます。地震と津波、そして原発事故によって引き起こされた悲しく辛い現実、多くの命が奪われました。また、命とともに家や財産、仕事や故郷、生きがいを奪い、深い傷を残しました。亡くなられた方々が、神さまのみ手の中に抱かれて、永遠に憩われますように、そして、まだまだ苦悩の中にある方たちに、慰めと希望、新しい勇気と知恵を求めて、ともに祈りましょう。3月11日は、「追悼と再生を願う合同祈祷集会」が全国各地で開催されます。
それでは、後ろでローソクを受け取った方から、祭壇にお進みください。祭壇の上のハガキをお取りになって席にお戻りください。
東日本大震災と福島第一原発事故を受けて、ドイツは脱原発を決めました。ドイツの映画監督のヴィム・ヴェンダーズは、昨年の10月に日本を訪問したとき、次のように言っています。
「ドイツは、未来のために今、犠牲を払うことを選択しました。自然災害を防ぐことはできませんが、自然との向き合う生き方は自分たちで決められます。これからの社会も自分たちで創ることができます。」
わたしたち日本人は、日本の社会は、この教訓をどのようにどう受け止め、どう未来に向かって歩んでいこうとしているのでしょうか?亡くなられた方々の尊い命と被災された方々の払った犠牲が無駄にならないようにとの願いを込めて、大震災から一周年を迎えたこのとき、平和で安全な未来を築いていくために、勇気ある決意をしていくことができるよう祈ってまいりましょう。
東日本大震災で被災された すべての方のために祈りましょう。
「東日本大震災被災者のための祈り」
あわれみ深い神さま、
あなたはどんな時にも私たちから離れることなく、
喜びや悲しみを共にしてくださいます。
今回の大震災によって苦しむ人々のために、
あなたの助けと励ましを与えてください。
私たちもその人たちのために犠牲をささげ、祈り続けます。
そして、一日も早く、安心して暮らせる日が来ますように。
また、この震災で亡くなられたすべての人々が、
あなたのもとで安らか憩うことができますように。
主キリストによって。アーメン。
母であるマリアさま、どうか私たちのためにお祈りください。アーメン。
それでは、イエスが、弟子たちとともに別れの食事をした最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で苦しみのうちに祈っておられるマルコ福音書14章を聞きましょう。
マルコによる福音14.32~42
一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることならこの苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』更に、向こうに行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ。わたしを裏切る者が来た』。
この箇所には、弟子の一人に裏切られる直前のイエスの苦しみがなまなましく描かれています。イエスが大きな恐れを感じたことも、死ぬばかりに悲しいというイエスの言葉もわたしたちは、知ることができます。そこには、いつも弟子たちの先頭に立って、権威を持って神様のことばを語り、多くの不思議なしるしを行って人々を救ったイエスの姿は見られません。
イエスは、弟子たちに一緒に目を覚まして祈ってくれるように願っています。イエスの不安と恐れが現れています。しかし、弟子たちは、三人とも眠ってしまいます。真夜中のことでしたし、イエスとともに食事をしたすぐ後だったこともあって、眠くてしかたがなかったのでしょう。それでも、イエスは、二度も三度も弟子たちのところに行きます。心は熱く燃えていても体がいうことをきかない弱い弟子たち。イエスは、たった一人で十字架の死に向かわなければならなかったことを福音書は伝えています。
イエスは、本当に死が自分の身に迫ったとき、恐れを感じました。苦しみを前にして、恐ろしさのあまりもだえ始めます。イエスは祈ります。「アッバ、父よ、あなたは何でも、おできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」とその苦しみを「血の滴るように地面に落ちた」と別のルカ福音記者は伝えています。福音書がイエスのこのことばを残してくれたことは大きな意味があります。人間的で現実的なイエスの声が聞こえてきます。イエスはわたしたちと同じ肉体をもった人間なのです。真っ暗なゲッセマネの園の中で、長い苦悩の時間が流れます。父は黙ったままです。人々の悪意の前に、人間の罪のために、自分の死を受け入れる以外は残されていない絶望的な瞬間をイエスは、たった一人で過ごしています。
弟子たちは、イエスがご自分の受難を三度予告していたのを、理解できませんでした。目を開いてイエスの苦しみを見なさいと言われたけれど、弟子たちには、その力がありませんでした。弟子たちとイエスの間には、越えられない深い溝があることをわたしたちは、はっきりと知ることができます。イエスは、悪の力、闇の力が迫ってくる中、祈り続けます。「アッバ、父よ、この杯を取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。」自分の好みや自分の望みではなく、父である神のみむねが行われるように。父の意志にゆだねられます。この祈りを何度も繰り返して祈られました。そしてイエスは最終的に選びます。「もうこれでいい。」彼は、自分に理解できないことであっても、神さまにゆだねることで、神さまが働いてくださることを信じ、謙遜で勇気ある態度ですべてを受け入れます。
ゲッセマネの園でイエスがもだえ苦しみながら祈っている姿をみるとき、わたしたちは祈りとは何か、ということを考えさせられます。わたしたちは、祈るとき、つい自分のしあわせのために神さまにこうしてほしい、これをください、と祈ります。つい自分中心になってしまいます。しかし、このイエスの祈りの姿をみるときに、祈りとは決して自分の好き嫌いを願うことではない、ということがわかります。イエスも確かに苦しみを前にしたときに、これが自分から取り除かれるように、この時が過ぎさるように、と祈りました。
しかし、自分が願うことではなくて、神さまのお望みが行われますようにという、これこそが彼の最後の祈りでした。自分を中心にしたのではなくて、神さまを中心にする姿です。
わたしたちは、心が燃えたり感動したりするときは、何時間でも祈りを続けることができます。でもこのゲッセマネの園でのイエスの祈りには、何一つ感動とか甘い思いはありませんでした。苦しみもだえ、涙を流して、祈っても祈っても神さまは答えをくださいませんでした。
わたしたちも神さまの前で祈るとき、どんなに祈っても心の中に神さまの声を聞くことができないとき、感じられないときがあると思います。もしなければ、これから必ずそのようなときがきます。そのときこそ忘れてはいけないことは、信仰をもって祈ることです。この祈りは、自分が喜んでいるから、あるいは感動しているから祈るのではなく、神さまの栄光のために利己心なしに本物の礼拝をささげることができるのです。
わたしたちが人生の中で、だれにも理解してもらえない、どうしても避けられない苦しみ、自分の十字架に直面するときがあります。ときには、他人の分まで背負わなければならない苦しみのときもあるでしょう。自分では解決できない重荷を経験するとき、イエスの信仰の祈りに参加して、イエスがわたしたちとともに苦しみを担って祈ってくださっているのを思い起こしましょう。
人間のあらゆる力が尽き果てたとき、すべてが閉じられたと思われるとき、神の救いが始まります。イエスの死に至るまでの従順によって、死はもはや眠りにすぎなくなりました。必ず神の助けによって、わたしたちはイエスと深く結ばれ、永遠のいのちへと導かれていくのです。
(沈黙)
ある人が、"自分の十字架が重すぎるので、神さまに他の十字架に替えてください"とお願いしました。神さまは、"いいですよ。どれでも好きなのを選びなさい"と言って、見守っていました。するとその人は、たくさんの十字架の中から、自分にちょうどよい十字架を見つけて、一つの十字架を選びました。「ぼくはこの十字架にします。ちょうど良い重さです。これだったら、担って行くのも大丈夫です」と言いました。でも担って見ると、それは、もともと背負っていた自分の十字架だったというお話があります。
私たちの人生には、必ず苦しみや自分の意に反する十字架に出会います。イエスさまは、私たちの模範として、最初にご自分の十字架を担われました。イエスさまは、いつも弱い私たちのことをご存知です。そして、一人ひとり、どのような十字架を担うことができるか知っておられます。私たちは、最後まで諦めないで「神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげ」(ローマ12.1)ながら、自分に与えられた十字架をしっかりと担っていきたいものです。自分の方から十字架を求めなくても、向こうからやってくる十字架を逃げないで、しっかりと受け止め、イエスとともに歩んでいく勇気と力を願いましょう。
これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。
「アレオパゴスの祈り 年間スケジュールと祈りの紹介」に戻る