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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2012年7月7日


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  主の御跡を歩む  (ミラノのアンブロシウスの祈り)

    主イエスよ、わたしたちは、あなたについて行きます。
    わたしたちが、あなたについて行けるように
    わたしたちを召し出してください。
    なぜなら、あなたなしでは、誰も歩むことができません。
    本当に、あなたはわたしたちにとって
    道であり、真理であり、いのちです。
    平らな道のように、
    わたしたちを迎えいれてください。
    真理が安心させるように、
    わたしたちを請け合ってください。
    あなたは いのちですから、
    わたしたちをいのちある者としてください。

今晩の「アレオパゴスの祈り」は、旧約聖書のサムエル記に登場する預言者サムエルを取り上げたいと思います。サムエルは、父エルカナと母ハンナの間の息子として生まれました。ハンナは子どもに恵まれないために、エルカナのもう一人の妻から屈辱を受けますが、長年にわたって神に祈り続け、ようやく子どもを授かりました。

母ハンナは神に感謝し、約束どおり、サムエルをシロの祭司エリのもとに送り、主に仕えさせました。彼は、エリのもとで、すくすくと育っていきます。サムエルとはヘブライ語で「その名は神」という意味だそうです。神に祝福されて、選ばれたサムエルの生涯をたどっていきましょう。

それでは、後ろのローソクを受け取って、祭壇にささげましょう。ハガキをお取りになって席へお戻りください。

少年サムエルが、神からの語りかけを聞いたときの物語が書かれている旧約聖書のサムエル記を聞きましょう。

サムエル記 上 3.1~21

少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走っていき、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。

主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は3度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。

「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない。」

サムエルは朝まで眠って、それから主の家の扉を開いた。サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。エリはサムエルを呼んで言った。「わが子、サムエルよ。」サムエルは答えた。「ここにいます。」エリは言った。「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」サムエルは一部始終を話しし、隠し立てをしなかった。エリは言った。「それを話しされたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。

(沈黙)

祭司エリの下で修行中に、ある晩、サムエルが神殿で寝ていると「サムエルよ」と呼び声が聞こえました。サムエルは、祭司であるエリに呼ばれたと思って「ここにいます」と答えて彼のもとへ駆けつけます。しかし、エリは「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」とサムエルを帰します。同じことが3度繰り返された後、エリは、それが神からの呼びかけと気づき、サムエルに「もし今度呼ばれたら、主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております」と答えなさいと教えます。4度目にサムエルを呼ぶ声がしました。このとき、「主は来てそこに立たれ」と書かれています。霊の存在である神、主の現れを擬人的に表現したものです。サムエルのそばに神が臨んで呼びかけたのです。

幼きサムエル
レイノルズ「幼きサムエル」

神は再び「サムエルよ」と呼びかけます。「主よ、お話しください、僕は聞いております」とサムエルが答えると、神は、サムエルの師であるエリの家の罪を告発し、裁きをもたらすという重要なメッセージを語り始めました。

翌朝、サムエルは、この神の厳しい言葉を師であるエリに伝えることを恐れます。サムエルにとってそれを受け止めることは容易なことではありませんでした。しかし、エリは、サムエルに恐れることなく、示されたことを隠さずすべて語るようにと励まします。

サムエルは、前夜、示された神の言葉をエリに伝えます。サムエルは、この瞬間に、神の言葉を聞き、伝える『預言者』として立てられました。

この出来事は、聞くことの大切さを示しています。サムエルは神の言葉を聞きました。そして、エリもまたサムエルをとおして、神の言葉を聞き受け入れました。神の言葉を聞き、それを語るというのは困難や苦しみを伴います。もし、サムエルもエリも人間関係を優先させていたら神の言葉を受け入れることができなかったでしょう。サムエルはエリをとおして聞くことの大切さ、そして、神の言葉を聞きそれを語ることの厳しさを学びました。

あの晩、先に先輩の祭司エリが、神のみ言葉を聞く方法を知っていたので、サムエルは、彼から神のみ言葉を受ける方法を教えてもらいました。神から何度も呼びかけられたにもかかわらず、誰に呼びかけられているのか分からない少年のサムエルでした。

しかし、もしかしたら、少年サムエルは、すでに、師であるエリの家で起こっていること、息子たちの不正とそれをはっきりと注意できないエリの弱さに うすうす気づいていたのかもしれません。そのことを言うべきかどうか迷っていたのかもしれません。いずれにしても、神からの呼びかけに気づいた瞬間、彼は、自分自身の深い内面からの声を確かに聞き取り、自分の語る言葉としました。そして、恐れながらも、神による正義を貫くために立ち上がりました。

その後、イスラエルはエリの息子たちの放蕩によってペリシテの攻撃を受けますが、サムエルは、最後の士師としてイスラエルを解放します。また、最初の預言者として神の言葉を民に取り次ぎ、王を求める民の訴えを神にとりなし、サウルとダビデに油を注いで王政を確立しました。サムエルの生涯は母ハンナの祈りによって始められ、神へと聖別された者であり、彼自身も祈りによってあらゆる事柄に直面していきました。彼は、一言で言うと祈りの人でした。

わたしたちもサムエルのように、神からの声を聴くことができるよう、静かに心を整えましょう。神がいつ語ってくださるのか、またいつ聴くことができるのか、わたしたちのほうから決めることはできません。日常生活の中で起こるさまざまな出来事や人との出会いに心を留め、すぐには理解できないことや分からないことがあっても、思いめぐらせるようにしましょう。主への賛美、主への感謝、そして願い、とりなの祈りと共に、「主よ、お話しください」と心を静めて神の御心を聞き取り、答えを見つけていく歩みこそが、祈りとなっていくでしょう。

『祈りの歌を風にのせ』p.41 「主よ わたしは今ここに」3回繰り返す

パウロは、新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の中で、次のように言っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10.17)

自分が語ることから始めないで、聞くことから始めましょう。もちろん、わたしたちはさまざまな願いや求める心をもって祈ります。慰めを求めて、癒しを求めて、救いを求めて、あるいは人生の知恵を求めて、真理を求めて、または交わりを求めて・・・。さまざまな求める心を抱えてやって来ます。しかし、祈りに集うとき、そのまま、何かを要求する姿勢に留まり続けることはできません。み言葉を聞く。ご聖体を受ける。このような恵みがはっきりと現しているように、わたしたちが徹底的に受け身になるところから、信仰は始まります。「信じる」という自分の選びの決断は、最初に「聞く」という受け身になるところから始まります。

また、主イエスが、求めておられるのは、この「聞くこと」です。マルコによる福音書第4章には、「聞く」という言葉が、何度か出てきます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(23節)、「何を聞いているかに注意しなさい」(24節)と言われます。「聞く」ということは、わたしたちに集中力を求めます。さまざまな言葉や情報が氾濫している現代の社会の中で、神の言葉を聞くために、わたしたちは耳だけではなくて、目も、心も集中させなければなりません。受け止める準備ができると、その心に神は語りかけます。キリストは、わたしたちの中に、神の声を聞き分けるために全身全霊で聴くことを求めておられます。

『カトリック典礼聖歌集』 No.19「今日、神の声を聴くなら」① ②

祈りましょう。
みことばである主よ、わたしたちは、毎日たくさんの出来事の中で、たくさんの言葉を聞いています。しかし、わたしたちは、自分の思いわずらいや心配に心が奪われ、あなたの言葉を上手に聞き分けることができません。少年サムエルが師であるエリの言葉によって、あなたの呼びかけに気づいていったように わたしたちも周りの人々をとおして語られるあなたに、気づけるよう静かに聴く心を与えてください。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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