アレオパゴスの祈り
アレオパゴスの祈り 2012年9月1日
教皇ベネディクト16世は、第2バチカン公会議開催から50周年を迎える、今年の10月11日から来年2013年11月24日、「王であるキリスト」の祭日までを、特別な年「信仰年」と定めました。教皇は、次のように言っています。
「信仰年」において決定的に重要なことは、信仰の歴史をたどり直すこと。なぜなら、信仰の歴史は、聖性と罪がより合わされた、はかりしれない神秘によって特徴づけられているからです。この機会に、イエス・キリストに目を注がなければなりません。愛の喜び、悲惨な苦しみと痛みへの答え、人から受けた侮辱をゆるす力、そして、死の空虚に対するいのちの勝利、これらのことがすべて、キリストが人となられ、人間の弱さを共有し、死を体験し、復活の力によって造り変えられる神秘において、実現していくからです。"
(教皇ベネディクト16世 自発教令 『信仰の門』より)
歴史を振り返ったとき、キリストへの信仰によって、殉教者は、自分のいのちをささげて、福音の真理を証しししました。福音は彼らを造り変え、自分たちを迫害する者をゆるすという、愛のたまものを得ることができました。この「信仰年」が、わたしたちにとっても、神への信頼を深めるためのよい機会となりますように祈ってまいりましょう。
今晩の「アレオパゴスの祈り」は、いのちを賭けて信仰を証ししした、9月に記念日を祝う殉教者たちを見てみたいと思います。
それでは、後ろでローソクを受け取り、各自、祈りの意向をもって、祭壇にささげましょう。祭壇の上のハガキをお取りになって席にお戻りください。
今月、9月10日は、日本205福者殉教者を記念し、また、9月28日には、聖トマス西と15殉教者を祝います。日本の殉教者としては、パウロ三木をはじめとする26聖人が有名ですが、彼らが1597年に長崎の西坂で殉教したころは、キリスト教に対する弾圧が始まっていたとはいえ、まだそれは部分的なものでした。豊臣秀吉は、26聖人が殉教する10年前の1587年、すでに禁教令を出し、宣教師たちをマニラに追放するように命じていました。しかし、公然と禁教令に反対する大名は、一人もいませんでした。自分の権威が公認されるのを知った秀吉は、それ以上迫害を進めようとはしませんでした。
しかし、徳川家が政権を握ると、弾圧は組織的で徹底したものとなっていきました。ついに幕府は、宣教師や指導的人物を国外に追放し、国内に残された信者に対しては、宗門改めや連座制などを定めました。キリスト教に好意的であった大名も、幕府のこのような姿勢に、信者への弾圧を厳しくせざるをえなくなりました。それにもかかわらず、いく人もの外国から来た宣教師たちが日本に留まり、厳しい監視の目を潜り抜け、信者の信仰生活を助け、励ましました。日本人信者の中にも、命がけで彼らを助ける人々がいました。また、捕らえられて拷問を受け、棄教を迫られても、多くの人は屈することなく、最後まで信仰を貫き通しました。
205福者殉教者は、こうした時代に殉教したキリスト者を代表する人たちでした。 205人の中には、日本26聖人が処刑されたと同じ場所、長崎の西坂で殉教した人たちがいます。1621年9月10日、セバスチアノ木村神父をはじめ55名が、斬首または火あぶりの刑に処せられました。その中には、父をポルトガル人、母を日本人として生まれた、わずか4歳のイグナチオもいました。両親とともに、死を前にして、ていねいにあいさつをし、小さな手で着物のえりをととのえると、静かに首を差し出したと言われています。彼の殉教は、見ていた多くの人の心に感動を与えました。
また、江戸では、徳川家光が将軍の座についたことを祝うため、全国の大名たちが地方から集まっていました。1623年12月4日、江戸の札の辻で、将軍のキリシタン弾圧に対する固い決意を見せつけるために、大名たちの面前で、アンジェリス神父とガルベス神父をはじめ48名が火あぶりの刑に処せられました。この江戸の大殉教から、もっとも厳しい弾圧の時代が始まりました。
1624年2月10日には、雪の降りしきる仙台で、ディエゴ神父など9名が骨も凍るような広瀬川に沈められ、氷の上に頭だけを出して、イエス・マリアのみ名を唱え、次々と殉教しました。1631年9月3日には、長崎で、アントニオ石田神父ほか4名が「キリストへの信仰、万歳!」と叫びながら炎の中で息絶えました。彼らは、その前の年には、雲仙で何度となく にえたぎる熱湯を全身にあびせられる拷問に耐えていました。
殉教者たちの多くに共通している点、それはキリストへの信仰を生きることと、兄弟であるキリスト者たちへの奉仕に生きることが、彼らの中でまったく一つのものであったという点です。たとえば、彼らの中には、国外への追放令が出されたとき、キリストへの信仰がゆるされている国で生きていく道を選ぶことのできた人もいます。ひっそりと隠れて自分の信仰を静かに生きるという道もあったでしょう。
しかし、彼らは危険を覚悟の上で国に留まり、ほかのキリスト者たちのために活動していきました。彼らにとって、キリストを生きることは、ほかのキリスト者のためにいのちをささげることでした。キリストへの信仰が、彼らを人々への奉仕、しかもいのちを賭けた奉仕に駆り立てていきました。今日、信仰を個人のプライベートな世界に限定し、他の人に干渉するのを好まない風潮をもった社会の中で、この殉教者たちの信仰への理解と生き方は、わたしたちに大きな問いを投げかけているように思います。
この点を深めるために、聖パウロが自分の生と死について述べている箇所を聞きましょう。
使徒パウロのフィリピの信徒への手紙1.12~26
兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御ことばを語るようになったのです。
キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機から、そうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。
そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにしても、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
だが他方では、肉に留まるほうが、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。
(沈黙)
この手紙を書いたとき、パウロは捕らえられ獄中にいました。明日にでも死刑を宣告されるかもしれない状況です。パウロが「死」について語るとき、一般的な教えを述べているのではなく、現実に起こる切迫したこととして述べています。
このパウロが、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(20節)と言います。自分がどのような状態に追い込まれるにせよ、キリストが告げ知らされ、人々が信仰を生きるようになることが望みであることを表明しています。そして、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)と宣言します。なぜ、死ぬことが利益なのでしょうか。それは、死ぬことによって、完全に「キリストと共にいる」(23節)ことになるからです。それは、パウロの「熱望」であり、「はるかに望ましい」ことでした。
しかし、一方では、死はフィリピのキリスト者をはじめ、多くの人のために、パウロが働けなくなることを意味します。逆に、「生き続ければ、実り多い働きができ」(22節)る、つまりキリストを宣べ伝え、多くの実りを結ぶことができます。だから、そのほうが「あなたがたのためにもっと必要」(24節)なのです。こうして、パウロは「この二つのことの間で板挟みの状態」(23節)にあると言っています。死ぬことと生きることの間、「パウロ自身のため」と「人々のため」との間で、「どちらを選ぶべきか、分からない」(22節)と悩んでいるのです。
ところが、これに続くパウロのことばは、「……いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう」(25節)と言っています。このことばには、もはや迷いは感じられません。当然、生きることを選ぶ決心をしています。パウロにとっては、自分のためよりも他の人々のために生きることが大切であり、キリストと共にいることよりもキリスト者のために宣教と司牧に身をささげることのほうが大切なのです。キリストと共にいるということは、パウロにとって、キリスト者のために尽くすということでしょう。それは、冒頭で「わたしにとって、生きるとはキリスト」(21節)であると述べていることからも明らかです。
殉教者もこのような信仰を生きました。彼らは、どんな苦難の状況の中にあっても、最後まで、信仰を捨てず、自分がキリスト信者であることを証ししして、人々への奉仕のために生き続けることを望みました。最終的に、パウロも殉教者たちも死をもって信仰を証しすることになりましたが、死ぬことが目的ではなく、いのちに代わる大切なものがあることを死をもって証明しました。
それでは、彼らの殉教は、実際に人々のためになったのでしょうか。歴史的には、彼らの死後、長い迫害の時代が続きます。しかし、彼らがいのちをかけて成し遂げた教会への奉仕と信仰の証しは、教会と信者たちに苦難の時代を生き抜く堅固な組織と熱意を与えました。こうして250年にわたる、歴史上まれに見る弾圧の時代にあって、人々はその信仰を伝え続けました。彼らの子孫が、長崎でプチジャン神父にその守り抜いた信仰を表したのは、1865年3月17日、日本26聖人殉教者が列聖された3年後のことでした。その2年後の1867年7月7日、教皇ピオ9世は、205人の殉教者を列福しました。
彼らが人々のためにいのちを賭けて、守り伝えた信仰から、わたしたちも彼らの生き方に学び、この現代社会の中で、主キリストが悪と死に打ち勝たれた、ゆるぎない信仰をもって生きることができますように。
(沈黙)
ここで、もう一つのグループ、9月28日に祝う、聖トマス西と15殉教者を簡単にご紹介しましょう。聖トマス西と15殉教者は、ドミニコ会司祭、修道士、修道女、彼らを助けた信徒たちで、キリシタン迫害の厳しかった1633年~1637年に、長崎で殉教した人々です。この16人の中で日本人は9名です。ほかに、スペイン人、イタリア人、フランス人、フィリピン人が含まれています。とくにフィリピン人の聖ロレンソ・ルイスは、フィリピンでの最初の聖人の栄誉をになうことになりました。
聖トマス西と15殉教者に共通する特徴は、迫害のさなか、厳しい弾圧と飢え、寒さに耐えながら、自ら神との深い交わりのうちに生き、信仰を強め、つねに神のみことばをのべ伝え、キリストへの愛を示すためにいのちをささげたことです。彼らの福音宣教に生きる姿、そしてキリストの証し人として生きたその生涯は、今日のわたしたちに信仰と生活を一致させ、福音宣教に生きるようにうながしているようです。
彼らは、1987年10月18日バチカンのサン・ピエトロ大聖堂前で、広場をうめつくす大会衆の見守る中、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。列聖式は、日本との関係でいえば、「日本26聖人殉教者」が1862年に列聖されて以来125年ぶりのことでした。
「殉教者の血は信者の種」という言葉があるように、日本26聖人殉教者、日本205福者殉教者、聖トマス西と15殉教者たちの信仰の証しの上に、今日の日本のカトリックの教会が存在しています。
ご一緒に祈りましょう。
『パウロ家族の祈り』 p.210 「イエスのみ心に向かう祈り」 ⑦
わたしのためにいのちをささげてくださった、かぎりなく柔和なみ心に、感謝と賛美をささげます。
あなたの御血、御傷、むち打ち、いばらの冠、十字架、うつむいたみ顔は、
「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」と
わたしの心に語ります。
羊飼いは羊がいのちを得るため、ご自身をささげました。
わたしもあなたのためにいのちをささげ尽くすことを望みます。
いつでも、どこでも、すべてにおいて、
栄光のためにわたしを使ってください。
いつも、わたしが「み旨のままに」といえますように。
あなたと人びとに対する愛の火を、わたしの心に燃え立たせてください。
イエスのみ心、いっそう深くあなたを愛することができますように。
最後にヨハネによる福音のことばを聞きましょう。
「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ それは一粒のまま残る。しかし、死ねば豊かな実を結ぶ。」(ヨハネ12.24)
10月11日から始まり、来年の11月までの「信仰年」が、わたしたちの主キリストとのかかわりをますます深め、信仰の炎を強めていくことができますように。祈りを込めながら、今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。
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