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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2012年10月6日


彼岸花



教皇ベネディクト16世は、第2バチカン公会議開催から50周年を迎える、今月の10月11日から来年の11月24日、「王であるキリスト」の祭日までを特別年、「信仰年」を定めました。

教皇は、次のように言っています。

「信仰年」において決定的に重要なことは、信仰の歴史をたどり直すこと。それは、信仰の歴史は、聖性と罪がより合わされた、はかりしれない神秘によって特徴づけられているからです。キリストが人となられたことによって、人間の弱さを共有し、死を体験し、復活の力によってこの弱さを造り変えられた神秘において、実現していきます。
愛の伴わない信仰は実りをもたらすことがありません。また、信仰を伴わない愛は、たえず疑念にさらされます。信仰と愛は互いに必要とし合い、相手に自分の道を歩むことを可能にします。信仰はわたしたちがキリストを見いだすことを助けてくれます。そして、キリストの愛はわたしたちを駆り立てます。

この「信仰年」が、わたしたちにとっても、神への信仰を深めるためのよい機会となりますように祈ってまいりましょう。

今晩の「アレオパゴスの祈り」は、戦国時代から江戸時代の初期に、国も地位も失いながら、いのちを賭けて信仰を生き抜いた、キリシタン大名、ユスト高山右近について見ていきたいと思います。どんな困難な中でも、何よりも福音を大切にする生き方を、身をもって証しした右近。その生涯は、試練の連続でした。追放に追放を重ね、異国で生涯を終えるまで、神への忠誠を生きた信仰の人 右近の勇気ある姿から、学んでいきたいと思います。

それでは、後ろでローソクを受け取り、祈りとともに祭壇にささげましょう。

高山右近は、今から460年前の1552年に生まれました。生誕の地は、いろいろな説がありますが、現在の大阪、または大和の国の奈良県とも言われています。1615年、フィリピンのマニラで、63歳の生涯を閉じました。室町時代から、安土桃山時代、そして、江戸時代のはじめまでの戦国時代を生き抜いてきた人です。

高山右近は、12歳のときに洗礼を受け、洗礼名に「ユスト」と名付けられます。ポルトガル語で「正義の人」という意味です。右近の父、高山飛騨守の洗礼名は、ダリオ、熱心なキリシタンでした。父ダリオは宣教に熱心で、やがて彼の宣教により余野城主の黒田氏が、家族や家臣たちと共に洗礼を受けました。その10年後、右近は、この黒田氏の長女・ジュスタと結婚することになります。

右近は、織田信長に信任され、豊臣秀吉にも信頼されますが、秀吉から「宣教師追放令」を発せられ、棄教を迫られたときには、迷うことなく、「たとえ人が、全世界を手にしても、自分の魂を失えば、何の益があろうか」(マタイ16:26)この聖書のことば通りに、神を選び取りました。その結果、右近の領地は没収、追放されます。右近は、キリシタン大名の小西行長の領地である、淡路島に渡り、その後、小豆島にかくまわれることになります。幾度となく追放に追放を重ねた右近は、行き先々で屈することなく、福音を伝えていきました。

徳川家康には「右近の部下の千人は、ほかの者の一万人よりもすぐれている」と言われて、その実力を評価されるほどでした。

右近は、21歳で高槻城の城主となり、高槻城内の身分ある家臣たちも、ほとんど皆キリシタンとなっていました。父ダリオは、すでに家督を譲り、教会のために奉仕し、城内には、立派な教会堂が建てられ、宣教師たちの住まいも建てられました。

アンジェラスの鐘は人々を聖堂へとさそい、右近と妻のジュスタ、父ダリオ、母マリアらは、宣教師たちから聖書の話を聞き、祈りの日々を送っていました。また父ダリオと右近は、領地内に困った者がいないか、いつも見回り、働き手を失った やもめや孤児の生活を助けることも、忘れませんでした。彼らは貧しい一信者の葬儀に、貧民の仕事である棺を自ら担ぐなど、身をもって愛徳のわざを行いました。

たくましく頭脳明晰な右近は、時には説教を引き受け、神のみことばを人々に語ったようです。村にも大きな十字架を立て、その階級を選ばない宣教は、大きな実を結びつつありました。右近は、古代イスラエルの王ダビデにも似た豊かな知恵と、人徳とによって領内を治めたので、人々は彼を心から尊敬し、1577年には、宣教師オルガンチノ神父を迎え、この年だけでも領内の2400人が受洗し、高槻はキリシタン国となっていきました。

また、山崎合戦で、実力のある武将として戦っています。高槻4万石の城主となり、12年間、明石6万石の城主として、2年間を過ごしています。城造りの名人であり、茶道・茶の湯の第一人者でもあり、千利休の七人の直弟子「利休七哲」のひとりでした。

1614年、徳川家康はキリシタン禁令を発令し、宣教師や信者たちの海外追放を命じます。右近は、すでに秀吉の「宣教師追放令」で、追放され、家族とともに加賀の大名、前田利家に仕えていました。しかしそこから、長崎に呼ばれ、船に乗せられてマニラに追放されました。マニラでは、日本に滞在している神父たちから報告を聞いていたスペインのマニラ総督が、最大の敬意を表して迎えました。「偉大なキリストの騎士」として市をあげて大歓迎を受けたと伝えられています。

しかし、長旅の疲れで、到着直後から体調を崩し、高熱が続き、翌年、63歳で病いに倒れ亡くなってしまいます。マニラ市による10日間に渡る葬儀の執行を受けてマニラのイエズス会墓地に葬られました。右近が26歳のときのことです。1578年に起こった有名な一つのエピソードをご紹介しましょう。

右近は当時、織田信長の家臣である荒木村重に仕えていました。ところが、村重は突然、織田信長に向かって謀反を企てたのでした。右近は、村重にそのような不正は、道理にも武士道にも背くものであるから行わないように忠告しました。そして、村重への忠誠を示すために、自分の妹と4歳の長男ジョアンを、人質として渡しました。 しかし、村重は、右近の勧めに心が揺り動かされながらも、結果的には、右近の指示に従わず、信長の裏切り者となってしまったのです。


高山右近像
高槻公園の高山右近像


右近の住んでいる高槻は、京都と大阪の中間に位置する戦略的な拠点になっていたので、信長は右近に高槻城の開城を要求してきました。このとき父ダリオは、「もし信長に高槻城を開城すれば、村重は人質を殺すだろう・・・・。」と、開城に断固反対し、荒木村重を味方することにしたのです。右近は父ダリオとは、全く反対の意見でした。

右近は、苦悩の中、指導者であった、オルガンティーノ神父の意見を聞きます。神父は、より上の長に従うべきであるとの考えを右近に語ります。村重は、長である信長に対して謀反者であり、右近が選ぶのはその長である信長であるという考えでした。しかし、神父は、その決断を強制することはなく、右近が最終的に選ぶのを任せました。

右近は、苦悩の中、城内にある聖堂で一日中、神に祈りました。その結果、信長には「人質を取り返すために努力したいので、しばらく猶予が欲しい」と伝えました。信長も右近がどちらにつくかの決心を見るため、フランシスコ会やその他の宣教師たちを捕虜とし、人質として取りました。どちらにも人質を取られた右近は、厳しい選択に迫られ、妻ジュスタも、わが子のことを思い、眠れぬままに右近に訴えます。しかし、そのとき、右近は静かに言いました。

「わたしとて、いのちをおろそかにするものではない。しかし、アブラハムはわが子イサクをささげようとしたではないか。また神は、この世のために御子の犠牲をお受けになった」。

そして、右近は、武士の衣服を脱ぎ、頭髪を切り、信長のもとへ向かいました。

信長は右近のいさぎよい姿を見ると、「さすが右近じゃ。案じるな、宣教師のいのちも教会も、保証しよう。人質も無事取り戻されるように。」と言って、荒木村重を攻め打つために走り去っていきました。

やがて村重は、自分の城を棄てて降伏し、人質は、右近のいる高槻城に戻ることができました。神は、右近と妻ジュスタの祈りを聞きいれてくださいました。

キリシタン嫌いの親類の圧力を受けて信仰を棄てていた右近の母マリアも、それ以来、信仰に立ち返りました。右近は、人間の考えではどうしようもない状況と判断を、神にすべて任せました。自分を完全に捨て、信長と村重の後ろにある神の手に委ねました。

その後、高槻領内のキリシタンはますます増えていきます。この年には、領民25000人中、18000人がキリシタンとなったと伝えられています。

(沈黙)

マニラでの最期のとき、右近は、家族を呼び「どんなことがあっても、信仰を失わず神の教えに従うこと。家族の中からもし一人でも神の教えを破るようなものが出たら、他の者がそのものを正しい道に連れ戻すこと」と言い残しました。そして、マニラに着いて40日後の1615年2月5日に熱病のために静かに息を引き取りました。この日は、ちょうど18年前に長崎で殉教した26聖人の記念日でした。

妻ジュスタは夫の最期の装いとして、大切に日本から持ってきた武士の盛装をさせ、胸に十字架を抱かせながら語りかけました。

「あなた様はよ戦いを戦い、走るべき道程を走り終え、信仰を守り通されました。こののち、天で義の冠が待っているばかりでございます」。(テモテ2 4.7~8)

そして、「安らかにお眠りくださいませ。わたしもいつかお跡を」と、そっと頬に触れました。

マニラ総督は、右近の死を知り、盛大な葬儀をとりおこないました。その日は、マニラ中の教会の鐘が鳴り響く中、右近の足に接吻しようとする市民や、棺を担ぐ役を得ようとする人々で、ごったがえしました。その後棺は、サンタ・アンナ聖堂の大祭壇のかたわらにイエズス会の聖堂に埋葬されました。

こうして高山右近の魂は、永遠の神のもとへ帰り、その永遠の生命の中に入りました。右近に死が訪れたとき、彼は地上において、一切の領地も持っていませんでした。しかし右近がこの地上に残したよいわざと、愛の行いとは、永遠に神に覚えられているものでした。

「まことのいのち」は、領地や権力の中にあるのではなく、この世の財産の中にあるのでもありません。右近は、権力や地位が武士にとってすべてである時代の中で、いのちは、永遠の神との、愛の交わりのうちにあることを身と心をもって示してくれました。聖パウロが言うように、「よ戦いを戦い、走るべき道程を走り終え、信仰を守り通された。」右近は、天で義の冠を受けていることでしょう。

「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」(マタイ5.10~11)

「清い心で」 ① ② ④

祈りましょう。

ユスト高山右近の列福を求めて

すべての人の救いを望まれる神よ、ユスト高山右近は、「全世界に行って、福音をのべ伝えなさい」というキリストのことばにこたえ、苦しむ人を支え、困難のうちにある人を助け、あなたへの愛を証ししました。また、世の権力に屈することなく福音に忠実に従う道を選び、すべての地位と名誉を捨て、幾多の困難をすすんで受け入れ、ついには異国へ追放されました。このように、あなたはユスト高山右近をとおして、すべての人に仕える者の姿を示してくださいました。

父である神よ、現代に生きるわたしたちが、あなたの忠実なしもべ、ユスト高山右近にならって、この世の力や誘惑に惑わされることなく生き、福音を証しできるよう、ゆるぎない信仰と勇気で満たしてください。そして、福音を力強く証ししたこの神のしもべを福者の列に加えてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。

これで、今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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