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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2013年 2月2日


ラン



   新しい歌を主に向かって歌え。
   全地よ、主に向かって歌え。
   主に向かって歌い、御名をたたえよ。
   日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
   国々に主の栄光を語り伝えよ
   諸国の民にその驚くべき御業を。
   大いなる主、大いに賛美される主
   神々を超えて、最も畏るべき方。
                 (詩編96.1~4 )

新しい年、2013年も2月を迎えました。皆さまは、新年を迎えて、神さまにどのような願いをささげられたでしょうか。今年も、"アレオパゴスの祈り"をとおして、神さまの豊かな愛と憐れみに触れていけますようめぐみをご一緒に願って祈りましょう。後ろでローソクを受け取り、祭壇上のハガキをお取りになって席にお戻りください。

カトリック教会は、昨年10月から「信仰年」を歩んでいます。「信仰年」にあたり、神さまが日々わたしたちの心に触れてくださり、人間の知恵を越える信仰のめぐみを豊かにくださいますよう、祈ってまいりましょう。

今年、はじめてのアレオパゴスの祈りは、旧約聖書の「ヨブ記」を取り上げたいと思います。「ヨブ記」の主人公ヨブは、正しい人で、神を畏れ、子どもに恵まれ、多くの財産を持ち、周りの人からも尊敬されていました。しかし、ある日突然、彼の身に理由のわからない苦難が、次から次へと襲いかかります。彼は家族を失い,財産を奪われ、いまわしい病気が与えられます。周りの人たちは相次ぐ災いを見て、ヨブは神さまに呪われていると遠ざかります。

神さまがいるなら、正しい人がなぜ苦しむのか? ヨブは、苦しみの意味を問い、神さまと争います。誰もが悩む人生の理不尽をテーマにした「ヨブ記」は、わたしたちの人生の多くの問題にさまざまな示唆を与えてくれます。主人公のヨブの生き方は、この難問に真正面から取り組み、生きる勇気と希望、そして慰めを、わたしたちに与えてくれます。今晩は、その中で、ヨブの試練が記されている箇所と試練が終わって神さまからの祝福が再び与えられる最後の結びの部分を朗読していきたいと思います。

ヨブ記 1.1~3.13

ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。

ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。

ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」 彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。

またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。

主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」

サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。

ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。

(沈黙)


やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。

わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。
その日は闇となれ。神が上から顧みることなく
光もこれを輝かすな。
暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。密雲がその上に立ちこめ
昼の暗い影に脅かされよ。
闇がその夜をとらえ
その夜は年の日々に加えられず
月の一日に数えられることのないように。
その夜は、はらむことなく
喜びの声もあがるな。
日に呪いをかける者
レビヤタンを呼び起こす力ある者が
その日を呪うがよい。
その日には、夕べの星も光を失い
待ち望んでも光は射さず
曙のまばたきを見ることもないように。
その日が、わたしをみごもるべき腹の戸を閉ざさず
この目から労苦を隠してくれなかったから。
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
なぜ、膝があってわたしを抱き
乳房があって乳を飲ませたのか。
それさえなければ、今は黙して伏し
憩いを得て眠りについていたであろうに。

『祈りの歌を風にのせ』p.41「主よ わたしは今ここに」2回繰り返す


ヨブとヨブの友人たち


その後、3人の友人が次々に見舞いにやって来ます。「遠くからヨブを見ると、ヨブと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは7日7晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。」とあります。ヨブの状態がどんなに悲惨なものであったかがわかります。

3人はヨブを見舞いに来たのに、結果としてヨブを一層苦しめることになってしまいました。友人たちは、なぜヨブが苦しまねばならないのかについて議論を始めてしまったのです。3人は、ヨブはどこか間違ったところがあるから神さまの罰を受けているというものでした。これに対してヨブは、自分は正しい者であり、少しの間違いもないと反論しています。ヨブは正しい人で、その証拠が見つかりません。3人の友人は自分たちの推測の方が、間違っているとわかり、次々沈黙していきます。

ついに創造主である神さまが嵐の中から、ヨブに語りかけます。ヨブは悔い改めます。神さまは、ご自分のことを正しく語らなかった3人の友人たちのことを怒っておられましたが、ヨブは、友人たちのために祈り、神さまはその祈りを受け取ってくださいます。

「ヨブ記」は、主人公ヨブの受けたきびしい試練と、その回復の物語ですが、言い尽くせないメッセージをもっています。

この物語を読むわたしたちを驚かせるのは、神さまがヨブに試練を与えた理由です。なんと神さまとサタンがヨブの正しさを巡って“賭け”をしたというのです。神さまはヨブを信頼していました。そして、サタンに向かってこのように言いました。
「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(1.8)

サタンは表面上の敬意を払いながらも、意地悪に、神さまに反論しました。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(1.9)

このサタンのたくらみに、神さまは、ヨブに試練を与えることをゆるしました。ヨブに次々と災難が襲いました。ヨブは2度の略奪隊の被害に遭い、また2度の天災に遭い、財産も、家畜も、僕たちも、さらには息子や娘たちまでも失ってしまいました。試練はそれだけにおさまりません。ヨブは全身を覆う皮膚病にかかって苦しみ、妻からも見放されてしまいます。こうしてヨブは、自分のまったく知らないところで繰り広げられる神さまとサタンのかけひきによって、突然、人生のどん底に突き落とされてしまったのでした。

ヨブは、潔白で正しく、神さまを畏れ、悪から遠ざかって生きてきた自分がなぜこんなひどい目に遭わなくてはならないのか、そのわけのわからなさを思いっきり神さまにぶつけて、争います。ヨブは当初は災いを宿命として受け入れますが、苦難が去らないばかりか、ひどくなるに従い、運命を呪い始め、神さまに異議申し立てをします「なぜあなたは正しいわたしに悪人と同じような裁きをされるのか、あなたは本当にこの地上を支配しておられるのか」。

自分の生まれた日を呪い、「なぜ、神はわたしなんかをお造りになったのか。わたしなど生まれなかった方がよかった」、「わたしは、こんな苦しみを受けなければならないような悪いことは何もしていない」、「なぜこんな苦しみを受けなければいけないのか、それだけでも答えてくれ」と、激しい言葉をもって訴え続けます。

人生の理不尽さに答えてくれという彼の訴えは、わたしたちの思いを代弁しているとも言えるでしょう。しかし、ヨブがどんなに叫んでも、神さまは なかなかお答えになってくださいませんでした。そのヨブの訴えに対して、ようやく神が嵐の中から回答されます。
「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を隠そうとするとは」。(42.3)

神さまはヨブの疑問に直接答えられず、ただ「あなたはどれだけわたしのことを知っているのか。あなたはどれだけこの世界のことを知っているのか」と聞かれます。この神さまの問いかけに、ヨブは全能者でもない自分がすべてを知るわけではないことを悟り、このような自分に神さまが心に留めてくださることに気づきます。そしてヨブは告白します。
「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(42.5~6)。
ヨブは納得して、神さまをたたえます。そして、神さまもヨブを祝福してくださいます。

ヨブは、「人生の理不尽な苦しみをどう解釈したらいいのか」、という人生の深い謎に答えを得ようとして、神さまと争い、妻や友人たちとも争いました。人生の悪戦苦闘の経験をとおして、ついにその答えに到達しました。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこへ帰ろう。主は与え、主は奪う。主のみ名はたたえられよ。」(1.21)そう言って揺るぎない信仰を示します。

人は苦しみに遭ってはじめて、自分の無力さを知り、弱さを知ります。自分ひとりの力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされていることに気づきます。ヨブは自分に与えられた苦難を、生き抜くための試練として受け入れます。

ヨブがこの苦難の中で求めたのは、神さまがどんなときにも共にいてくださるという信仰でした。人間は「神さまが共におられる」ことさえわかれば,不条理や苦難に耐えることができることをヨブ記はわたしたちに教えています。

神さまによって造られ生かされている人間は、神さまへの信仰に生きることが求められています。裸で生まれた人間は、信仰をもって神さまのみもとに帰ることができるのです。

ヨブ記の結びの箇所を聞きましょう。

ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。

主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。

ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。
(ヨブ42.10-17)

ミラノの大司教、故カルロ・マルティーニは、次のように言っています。 「試練は人生につきものですが、わたしたちはそれによって人生を悲しいものにしてはなりません。人生で心の平穏を保証する唯一の道は試練にふさわしく対応することです。試練を取り除くのではなく、それを生き抜くことが、キリスト者としての喜びとなります。」

「清い心で」① ② ③

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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