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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2013年 3月2日


山中湖の朝日



2月13日の「灰の水曜日」から四旬節が始まりました。四旬節とは、カトリック教会で、イエス・キリストの受難と死を思い起こしながらイエスの復活のいのちの喜びにあずかる復活祭の準備の40日間を指しています。もともとは復活徹夜祭に洗礼を受ける志願者たちの準備期間でした。ふさわしく洗礼の日を迎えるために、キリストとしっかり結ばれるように心を整えていく時期です。

すでに洗礼を受けている信者にとっても、四旬節は、復活祭をふさわしく迎えるために、キリストの十字架の道を思い起こし、自分の生き方を省みて改めるときです。それは単なる反省ではなく、心を神に向け直し、そこから神との関係、人との関係を新たに生きることです。この回心のしるしとして伝統的に大切にされているのが、「祈り、節制、愛の行い」です。

四旬節に勧められている「祈り・節制・愛の行い」とは、わたしたちが本当に神に心を向け、隣人に心を向けて生きることを目指しています。それは同時に、十字架の死に至るまで、父である神に信頼し、すべての人を愛し抜かれたイエス・キリストの歩みに従うことです。

神は、言われます。「わたしが望むのはいけにえではなく、愛である。わたしが望むのは、焼き尽くす献げ物よりも、人が神を知ることである。」(ホセア6.6)

四旬節は、わたしたちが毎年新たな心で、神を信じ、人を愛する道を歩もうとする季節です。今年は、3月31日に神の子イエスが、死の闇に打ち勝ち、復活のいのちに入るご復活を祝います。

また、3月11日は、東日本大震災から丸2年を迎えます。大地震と津波、そして原発事故によって引き起こされた悲しく辛い現実、多くの命が奪われ、その日を境に人々の生活が一変してしまいました。2013年2月現在で、15,880人の亡くなられた人々、そしていまだに行方がわからない2,698人の魂を、神のみ手に委ね、彼らの永遠の安らぎを祈りましょう。そして、いまだに被災地、避難地で苦悩の中にある方たちに、心を寄せて、慰めと希望を求めて祈りましょう。

(沈黙)

被災地への多くのボランティアは、何かしたいという善意の気持ちでやって来ます。ある人は九州から、ある人は広島、東京から。何万円もかけてわざわざ来るのです。義援金の形で送ることもできますが、何かしたいという思いから、時間とお金と労力をかけて助けに来ます。いろいろな形で被災した方に寄り添いたい、何か力になりたいとの、たくさんの善意が、被災地の人々の心を支え、絆となっています。

東日本大震災関係の記事から

石巻市の夫婦は、小学3年生だった長男を津波で亡くした。流産の悲しみを経て、ようやく授かった一人息子だった。共に囲んだ食卓、友だちと遊ぶ声でにぎやかだった庭。静まりかえった家で何を見ても息子の不在に突き付けられる。「つらくて、苦しくて・・・・」と夫婦は声をつまらせ、涙をこぼした。

3月11日、息子は、通っていた小学校で友だちとともに津波に巻き込まれた。学校の近くの田んぼで見つかった小さな遺体は、片方しか靴をはいていなかった。震災の当日の朝、「野球も英語も頑張れる?」と念を押すと、「頑張る!」と元気にうなずき、「おっかぁもがんばってね」と声をかけた。それが最後の会話となった。「前に進まなきゃ」と周囲から言われることがある。励ましだと思っても、踏み出せない。夫婦の時間はあの日で止まったままだ。  (『河北新報』より)

(沈黙)

長野県諏訪市の教育委員会は、子どもたちの防災研修として、宮城県の大震災被災地に小中学生を派遣する「虹のかけ橋プロジェクト」を計画し、事前研修会を行った。プロジェクト担当の校長先生は、「被災地を自分の目で見て、素直に感じたことを、学校に帰って伝えてほしい」と呼び掛けた。
小学校5年のA君は、「津波で子どもを亡くしたという母親の話をニュースで見て、印象に残っている。どうなっているのか、何ができるのかを知りたい」と語った。中学校2年のBさんは「実際に自分の目で見て、直接、声を聞きたい。2年たって、今も生活がどれだけ不便なのか心配」と被災地を気遣った。
プロジェクトには市内の小中学生合わせて26人が参加し、今月3月22日~24日の日程で宮城県の石巻市、東松島市を訪れる予定。  (『長野日報』より)

大震災から2年を迎えようとするこのとき、愛する家族、友人、仲間を失った人々の痛みは、これからも決して消えることはありません。被災されたすべての人々の悲しみと苦しみを、担ってくださっている主キリストとともに、慰めと光と希望の源である神に祈りましょう。

東日本大震災被災者のための祈り

   あわれみ深い神、
   あなたはどんな時にも私たちから離れることなく、
   喜びや悲しみを共にしてくださいます。
   今回の大震災によって苦しむ人々のために、
   あなたの助けと励ましを与えてください。
   わたしたちもその人たちのために犠牲をささげ、祈り続けます。
   そして、一日も早く、安心して暮らせる日が来ますように。
   また、この震災で亡くなられたすべての人々が、
   あなたのもとで安らか憩うことができますように。
   主キリストによって。アーメン。

   母であるマリアさま、どうか私たちのためにお祈りください。
   アーメン。

旧約聖書のイザヤの預言書の中で、神が、人間に対する限りない愛を語っておられる箇所があります。母親の子どもに対する愛にも勝る神のいつくしみ深い愛を現わしている場面を聞きましょう。

イザヤの預言49.14~16

「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」

手のひらのイエス


神は「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか」とおっしゃいます。普通の母親なら、自分の乳飲み子のことを心にかけています。自分の産んだ子をいとおしく思います。母親が自分の子を見捨てることはありえません。しかし、現実には、そのありえないことが起こります。つまり、不幸にも母親から忘れられてしまうということ。愛されないということです。ありえないことが現実に起こってしまう、それが、わたしたち人間の世界です。

赤ちゃんは、必死で、自分がここにいるということを、覚え続けてもらうために、叫び、泣いて主張します。そして、母親から、家族から、兄弟から、忘れられていない存在であることを感じるときに、わたしはここにいていいのだ、生きていてよいのだという安心と喜びに満たされます。

神は、すべての人のことを決して忘れないと約束してくださいます。神はおっしゃいます。「わたしの手のひらに刻みつける」と。手のひらに刻みつけるとき、それは当然、手に傷が生じ、同時に痛みと苦しみが生じます。

わたしたちは、ときどき、自分はひとりぼっちで他の人から忘れられていると感じ、また、神からも自分を見捨てられているように感じることがあります。そのように傷つき嘆くわたしたちを、神はご自分のその手のひらにまるごと刻みつけてくださるというのです。わたしたちの苦しみを、ご自分の苦しみとして引き受けてくださるというのです。

「わたしの手のひらに刻みつける」という言葉を聞くとき、わたしをご自分の手のひらに刻みつけると約束してくださった神の姿は、復活の栄光の後に、十字架の傷跡を見せながら、悲しみに暮れていた弟子たちのところに来てくださる主イエスと重なります。その時、主イエスは傷のない奇麗な姿でよみがえったのではありません。わたしたちの傷を負いながらよみがえってくださったのです。傷を見せながらわたしたちの前に現れてくださいました。しかし、それは傷を深く負って、弱々しく何とか立っている主ではなく、いのちに満ち、力強く立っている復活した主イエスです。

ですから、わたしたちも傷を負いながらも、なお立つことができます。それも力強く立つことができるのです。どうしてでしょうか。それは主イエスがよみがえってくださったからです。主がわたしたちの身代わりになって死に、そしてよみがえってくださったということは、わたしたちもイエスのように、傷を負いながらも力強く立つことができるということです。

病の床にあっても、動けなくても、そして死んだとしても、それに打ち勝ついのちに立つことができるのです。たとえ、どこに愛があるのか見えなくなったとしても、あるいはわたしたちが愛に生きることを忘れてしまったとしても、主の十字架の傷、主の復活の傷を見るときに確かに見えてくるものがあります。聞こえてくる言葉があります。「わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。あなたを愛している。あなたの名前がここに刻まれている。」この主の言葉は決して消えることはないのです。

(沈黙)

作者不明の詩があります。

   「もし神が忘れたら」
   神がこの世界を忘れたら
   たった一日でも忘れたら
   太陽を照らすのを忘れたら
   夜を昼に変えるのを忘れたら
   花を咲かすのを忘れ
   小鳥や蜂たちを忘れたら
   木々に新鮮な風を吹かせるのを忘れ
   雨を降らすのを忘れたら
   子どもたちに遊び声を与えるのを忘れたら
   そして、痛みを和らげるのを忘れたら
   いったいこの世界は、
   わたしたちは、
   どうなるのだろう
   もし神がたった一日でも忘れたとしたら。


神がわたしたちのことを忘れてしまったら大変なことになります。太陽の熱と光をこの地上に降り注がせるのを止めたら、わたしたちは、今、生きていることはできません。もし、一瞬でも神がわたしたちのことを忘れて、心臓を動かすのを忘れたなら、わたしたちは、今日生きていることはできません。だれも自分の心臓を自分の意志で動かし続けることはできません。わたしたちは自分で生きているのではなく、生かされています。わたしたちが今、このとき、心臓が動き生きているということが、神がわたしたちと共にいて、わたしたちのことを気にかけ、最善に導き、生かしてくださっているというあかしでもあるのです。わたしたちは、日々神に生かされている存在です。この神に生かされ、支えられ、愛されていることを人生の土台とし、神への信頼を深めていくことができますように。

最後に、復活したイエスが、11人の弟子たちに言われたことばを「マタイによる福音書」から聞きましょう。

マタイによる福音書28.18~20
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまでいつも、あなたがたと共にいる。」

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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