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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2013年 5月4日


マーガレット



疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、
わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
                 (マタイ11.28~30)


カトリック教会は、昨年の10月11日から今年の11月24日の「王であるキリスト」の祭日までを「信仰年」と定め、いっそう神への信頼を深めるためのよい機会とし、歩み続けています。

現代の日本の社会には、少子高齢化、経済の低迷、家族関係や人間関係の問題、いじめ、自死、原発問題など、さまざまな困難があり、多くの人が悩みや苦しみを抱えて生きています。ここには、生きる意味と救いを求める声なき叫びが満ちているとも言えます。

わたしたちはこの「信仰年」をとおして、もう一度、信仰の恵みを見つめ直す旅に招かれています。わたしたち自身がどのように信仰の喜びを生きているか、信仰から来る希望と愛をいだいているかを問い直してみましょう。神がわたしたちの信仰に新たな光を与えてくださるように、信仰年の実りを求めて、祈ってまいりましょう。

今晩の「アレオパゴスの祈り」は、新約聖書のヨハネによる福音書の中に登場する女性、「サマリアの女」について見ていきたいと思います。彼女は、5人、6人と次々に夫を替えながら、しかし決して心が満たされることがありませんでした。彼女は、魂の渇望をイエスとの出会いによって、初めて完全に満たされる体験をしました。

永遠のいのちに至る水を得た「サマリアの女」をとおして、ここに集うわたしたちも、主のみ前に立って、心の奥にある自分の渇きに気づき、決して渇くことのない水を与えてくださるイエスの招きに耳を傾けていけますように祈りましょう。

それでは、ローソクを祭壇にささげましょう。祭壇の上のハガキをお取りになって席へお戻りください。

ヨハネ福音書に書かれている「サマリアの女」の箇所を聞きましょう。

ヨハネ4:3~30、39~41

イエスは、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。

「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。

「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。

あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。

サマリアの女


真夏の昼どきに、サマリア人女性がひとりで、シカルという町から、ヤコブの井戸へ歩いています。普通、女性たちが水をくみに来るのは、朝と夕の2回、涼しい時間にするのが習慣だったようです。わざわざ昼頃に井戸に来るのは、おそらく他の女性たちを避けるためだったと考えられます。

当時、水汲みは女性の仕事でした。女性たちは、朝は生活用の水、夕方は家畜用の水を井戸にくみに行く習慣がありました。集まった女性たちは、一緒に共同作業をしたり、村のニュースや他人のうわさ話などをしていたようです。彼女は、日照りの強い、水も蒸発しやすい真昼に一人で水をくみに来ます。この女性には、人目につきたくない理由がありました。それは、それまでに5人の男性と一緒に生活した経験がありました。今は6人目の人と一緒にいます。彼女は、うしろめたい気持ちで、自分の方から交わりを避け、孤立した人生を生きていたのでしょう。

イエスは、ユダヤからガリラヤに戻る途中、サマリアをとおりり、ヤコブの井戸まで行きました。昼どきです。強い夏の日照りのもとで人影もなかったでしょう。しかし、イエスは、まるで、だれを待っているかのように井戸のそばに座っておられます。

そこにサマリアの女が水をくみにやって来ます。イエスは、ご自分の方から「水を飲ませてください」と話しかけられました。歴史的、宗教的な背景もあって、普通、ユダヤ人が異教徒との混血の子孫であるサマリア人に話しかけるということは考えられないことでした。

井戸の傍らで、「水を飲ませてください」というイエスと女性の対話が始まり、水をテーマにして、イエスは、女性を深い次元へと導いていかれます。物質的な水から、霊的な水へと、彼女の内面の渇き、傷ついて冷え切った心の奥にいのちへの渇きがあることを見抜いておられたのです。

イエスは、「生きた水」「決して渇かない水」「永遠のいのちに至る水」とは、すべてにいのちを与える神の霊であることを教えます。

話題は、女性のプライベートな生活に触れていきます。イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われると、彼女は答えて、「夫はいません」と言いました。「夫はいないと言ったのはもっともだ。夫は5人いたが、今いるのはあなたの夫ではない。あなたの言ったことはほんとうである」とイエスは、この女性の過去にこだわることなく、彼女の言った正直さを評価しました。

この女性は、初めて出会うイエスが自分の過去をすべて知っていることに驚きを隠せなかったことでしょう。しかもイエスは、あるがままに受け入れてくださったのです。彼女の心は、今こそ神の愛に身をまかせようと大きく開かれていきました。

イエスは、彼女に深い信頼を寄せて、核心を伝えました。「婦人よ、わたしの言うことを信じなさい。・・・霊と真理によって、父を礼拝する時がきている。今がその時である」と。場所にとらわれることなく、「霊と真理」をもって神を礼拝する時が、今、来ようとしていること、サマリア人も「まことの礼拝」をするようになることを告げます。

そして、彼女はイエスを目の前にして言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られる時、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」サマリアの女は、ただの疲れた旅人イエスから、主であり、永遠のいのちに至る水を与える人、全知の人、預言者、メシアへとイエスの本来の姿がわかるように導かれていきました。イエスは、彼女に「それは、あなたと話しているこのわたしである」とご自分のことを証されます。

自分が解放された後、喜びのゆえに、彼女は、メシア・イエスを町のサマリアの人々に伝えに行きます。この証しによって、サマリアの人々は、イエスを信じる者になったと福音書は伝えています。

サマリアの女がイエスと出会って、人生が全く変わったのは、傷ついた心の奥底に、本物への憧れ、渇きがあったからでしょう。長い間、差別とはずかしめの中で、自分ではどうしようもない状態からの救いと解放に渇いていたと言えます。心の底にあって自分さえ気づいていなかった叫びが、人ではなく、神の救いへと導かれていきました。神を求め続ける態度、罪を犯しても赦しを願う謙遜な態度は、永遠のいのちへの道へとつながっていきました。

(沈黙)

祈りましょう。

あわれみ深い主よ
弱いわたしたちは、しばしば間違いを犯してしまいます。
その間違いに気づくめぐみをわたしたちにわかる方法で教えてください。
自分の人生が、ぼろぼろになって、いのちの枯れたものとならないように、助けてください。

「サマリアの女」のように、自分を見つめる勇気と自分を変える勇気を与えてください。
わたしたちは、不完全なものですが、あなたの助けによって、あなたに似たものとならせてください。

ここでひとつの古くから伝わるお話をご紹介しましょう。

いのちの水

三人の旅人がいのちの水を求めて旅をつづけていました。その水を飲んで、永遠に生きたいと願っていたのです。

一人目は戦士でした。彼はいのちの水は急流か、激流か、とにかくはげしい力を持っている川の流れからくまなければならないと思っていました。それで、甲冑(かっちゅう)を身につけ、武器をたずさえていました。彼は力ずくでいのちの水を手に入れるつもりでした。

二人目は魔法使いの女でした。彼女はいのちの水には魔法がこもっているにちがいないと考えていました。巨大な渦か、間欠泉か、とにかく呪文をとなえなければ手に入らないだろうと。それで彼女は星をちりばめた魔法の衣を着て、魔法の力でいのちの水を取りこもうと意気込んでいました。

三人目は商人でした。彼はいのちの水はとても高価にちがいないと考えていました。真珠かダイヤモンドが泉のようにわいている所、いのちの水はそこからくまなければならないと。それで彼は服のポケットや財布にお金をつめこみました。お金の力でいのちの水を手に入れるつもりでした。

目的地についた時、三人はびっくりしました。

いのちの水は力ずくで手に入れられる流れではありませんでした。
いのちの水は呪文で取りこめる渦ではありませんでした。
いのちの水はお金で買える泉ではありませんでした。
それはほんのささやかな、キラキラ輝く湧き水でした。それはただでした。でももちろん、それを飲むにはひざまずかなければなりません。
三人の旅人は、大へん困りました。戦士は甲冑をつけていますので、身をかがめることすらできませんでした。魔法使いは裾長の魔法の衣を着ていました。ぬらすと魔力が失われてしまいます。商人はポケットにお金をやたらとつめこんでいるので、頭をちょっとかがめただけでも、貨幣が転がって見えない穴や隙き間に消えてなくなってしまいます。だれも甲冑や服がじゃまになって、三人とも、いのちの水が飲めそうにありませんでした。

解決の方法はたった一つだけです。
戦士は甲冑を脱ぎ捨てました。
魔法使いは衣を脱ぎ捨てました。
そして商人はお金のつまった服を脱ぎ捨てました。
その上で、つまりそれぞれがはだかになってひざまずき、冷たい、おいしい、驚きくほどの恵みにあふれている、その水を飲むことができたのでした。
         (『深い知恵の話100』 女子パウロ会刊行)

『パウロ家族の祈り』p.177 「師イエスに向かう祈り」(3)

師イエス、神のひとり子である あなたを礼拝します。
あなたは、人々にいのちを、しかも豊かないのちを与えるために
この世に来られました。
十字架の死をとおしてわたしたちにいのちをかち得、
これを洗礼によって与え、
聖体とその他の秘跡によって成長させてくださることを感謝します。
師イエス、わたしたちが精神を尽くし、力を尽くし、心を尽くしてあなたを愛し、
あなたへの愛のために隣人を自分のように愛することができるよう
わたしたちに聖霊を注ぎ、あなたの住まいとしてください。
いつの日か、わたしたちが栄光のいのちに呼び起こされ、
あなたとともに永遠の喜びに入ることができるように
わたしたちの内に愛を増してください。

道・真理・生命である師イエス、わたしたちをあわれんでください。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。



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