アレオパゴスの祈り
アレオパゴスの祈り 2013年6月1日
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟ってくださる。
歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひとことも語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。
その驚くべき知識はわたしを超え、あまりに高くて到達できない。
わたしを試し、悩みを知ってください。
どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。
(詩編 139.1~6、23~24)
聖書の中でいろいろな箇所に、『あなたの信仰が、あなたを救った』という、イエスの言葉がでてきます。自分を救うことのできる信仰とは何でしょうか。信仰の深さとは何で しょうか。
今晩の「アレオパゴスの祈り」は、マルコ福音書に登場する盲人、バルティマイをイエスが癒やした奇跡の物語を取り上げたいと思います。主イエスにすがる以外に救いはないと、必死の思いで叫び、自分の望みをイエスに伝えた彼の行動によって、目の見えない闇の世界から光の世界へと導かれたバルティマイ。人の施しで生活をしていた彼は、唯一の財産であるマントを投げ捨て、イエスのもとへ走り寄っていきました。そこには、まっすぐで素直な心、イエスを「キリスト」、「ダビデの子」と信じる信仰がありました。わたしたちも主に叫び、求め、信仰によって恵みをいただけるよう祈ってまいりましょう。
祭壇にローソクをささげましょう。祭壇の上のハガキをお取りになって席へお戻りください。
マルコ福音書に書かれている「盲人 バルティマイ」の話を聞きましょう。
マルコ10.46~52
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れみんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れみんでください」と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
イエスがエルサレムを目指してエリコの町に近づかれたときのことです。エリコからエルサレムまでは約20kmのところにあります。一日歩けば着く距離です。多分、イエスの思いは、エルサレムで起きる御自身の受難と十字架、そして復活へと集中していたのではないかと思います。イエスの周りには、弟子たちの他に、過越しの祭りをエルサレムにおいて迎えようとする巡礼の旅人も大勢来ていました。彼らは、イエスの話を聞きながら、イエスを取り囲むようにして歩いていたのでしょう。
そのイエスの一行がエリコの町に入ろうとしたとき、町の門のところで物乞いをしていた一人の目の見えない人が、こう叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れみんでください。」多分、この目の見えない人は、イエスについての噂(うわさ)を聞いていたのでしょう。そして、この方ならばわたしを救ってくれるにちがいない。そう直感が働き期待していました。そこに、イエスが来られました。目の見えない彼は、毎日エリコの町の門に座って、物乞いをするしか生きていく方法がありませんでした。イエスの噂を聞いても、自分の足で、自分から主イエスを求めていくことはできなかった彼の目の前に、イエスが現れたのです。"このときを逃せば、もう一生こんなチャンスはないかもしれない"そう思った彼は叫びました。自分の声がイエスに届くように、大声で、何度も叫びました。
「ダビデの子よ、わたしを憐れみんでください。」この声を聞いたイエスを取り巻いていた群衆は、この目の見えない人を叱りつけ、黙らせようとしました。どうしてでしょう。理由は簡単です。それは、うるさかったからです。イエスが歩きながら話されるのを、皆が耳をそばだてて聞いていました。そんな中、この目の見えない人の叫びは、しつこく、声も大きかったのでしょう。
しかし、この目の見えない人は、人々に叱られようと、黙るように言われようと、叫ぶのをやめませんでした。彼にしてみれば、このときしかなかったからです。このときを逃せば、もう二度とイエスに会うことはできない。自分をこの状況から救ってくれる人に会うことはない。彼は必死だったのです。必死に救いを求める人の叫びをやめさせることはだれにもできません。彼は叫び続けました。そして、その叫びは、ついにイエスの耳に届きました。イエスは、この人を自分のそばに連れて来るように命じました。そして、この目の見えない人が来ると、こう尋ねたのです。「何をしてほしいのか。」この目の見えない人は、「目が見えるようになりたいのです」と答えます。そこで、イエスは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われて、この人の目を見えるようにされました。そして、この人は神をほめたたえ、イエスに従いました。
わたしたちは、この「盲人 バルティマイ」のお話から、いくつかのことを学ぶことができます。第一に、イエスへの願いはあきらめてはいけないということです。この目の見えない人は、叱られようと、黙れと言われようと、「ダビデの子よ、憐れみんでください。」と叫び続けました。そして、イエスによって癒やされました。聖書の別の箇所に書かれている、イエスが話された、裁判官にうるさく求め続けたやもめのたとえ話を思い起こすことができるでしょう。わたしたちの祈り、願いは、あきらめることなく、しつこく求めなければならないことを教えています。
第二に、ときを逃してはならないということです。この目の見えない人は叱られても、黙っていろと言われても黙らなかったのはどうしてでしょうか。それは、この人が自分にはもう次のチャンスはないと思っていたからです。
旧約聖書の詩編95には、次のように書かれています。「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑にしてはならない。』」この言葉は、わたしたちの教会の伝統では招きとして用いられてきました。今日、神の声を聞いたなら、心をかたくなにせず、今すぐに、主の声に聞き従う。ここにわたしたちの礼拝の心があります。次の機会にと先延ばしにしてはチャンスを失ってしまうことになります。
第三に、イエスは、わたしたちの弱い信仰を受け取ってくださるということです。イエスは、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われましたが、この目の見えない人にどれほどの信仰があったと言えるでしょうか。この人は、イエスに目が見えるようにしてほしかっただけだとも言えるでしょう。だとすると、それは、深い信仰ではありませんでした。しかし、彼はイエスに対して、「ダビデの子、イエスよ。わたしを憐れみんでください。」と呼びかけました。この「ダビデの子」という言い方は、単にダビデの子孫ということを言っているのではなく、「救い主」「メシア」のことを指しています。彼は、イエスを救い主として呼んだのです。
そして、イエスに助けを求めました。「憐れみんでください」と、ただイエスの憐れみを求めました。自分の中には何もない。ただ、イエスの憐れみに期待するしかない。このワラをもつかむような信仰を、イエスは受けとめてくださいました。
イエスはここで「何をしてほしいのか」と尋ねます。これはイエスがこの人に自分の口で、ご自分への信頼を言い表させたということなのだと思います。彼は主イエスを「ダビデの子」、「救い主」と呼びました。彼は自分の目が見えるようになることを求めました。それは、彼がイエスにはそのような力があることを信じ、その力に頼ったからです。
ここに、彼の信仰の告白があります。主イエスをそのような力ある方と見ていないのなら、この盲人は、イエスに自分の目を開くことを求めたりはしなかったでしょう。彼は、エリコの町の門の前に座り、毎日自分の前を通る人々に、憐れみのお金を求めていました。イエスをただの教師と見ていたのならば、彼はきっと、今日、明日、食べることが出来るだけのもの求めたのではないでしょうか。彼は物乞いであり、いつもそうしてきたのです。しかし、彼がこのとき、イエスに求めたものは、いつも彼が自分の前を通る人々に求めていたものとは別のものでした。自分の目が見えるようになることを求めたのです。イエスはここに、この人の信仰を見て、この信仰を受けとめたのです。
(沈黙)
わたしたちはイエスに何を求めているでしょうか。その求めるものによって、イエスに対するわたしたちの信仰が明らかになるのではないでしょうか。わたしたちがイエスに求めるものは、救い主であるイエスによってしか与えられないものでなければなりません。そこにわたしたちの信仰が現れるからです。わたしたちはイエスにお金を求めるのではなく、目が見えるようになることを、救い主にしかできないことを求めます。とするならば、わたしたちがイエスに求めるものは、罪の赦し、体の復活、永遠の命であり、この世界にまことの平和が来ますようにということではないでしょうか。
わたしたちの弱い信仰は、頼りなく、自分を取り巻く状況によって、絶えず揺れ動かされます。しかし、イエスはそのような、あるかないかの信仰を受けとめてくださいます。ここに、わたしたちの希望、救いの確かさがあります。わたしたちの救いの確かさとは、わたしたちの信仰の強さ、確かさではなく、わたしたちの弱い信仰を受けとめてくださる、このイエスの憐れみの確かさです。それが、イエスが十字架にかかったということだと思います。このあるかないかの信仰を受けとめてくださる、主イエスの憐れみによって、この盲人は救われました。わたしたちも同じと言えます。
(沈黙)
第四に、この人はイエスによって目が見えるようにしていただくと、神をほめたたえながら、イエスに従いました。ここに、イエスの救いに与った者の新しい歩みがあります。多分この人は、目が見えず物乞いをするしかない自分の生活に対して、今まで心から神さまをほめたたえることはできなかったと思います。どうして自分はこんな目に遭わねばならないのかと、愚痴の一つや二つが心から湧きだしてしまう、そういう生活だったのではないでしょうか。
しかし、イエスの救いに与り、神をほめたたえる、主を賛美する言葉が自然に口からあふれてきました。神さまはわたしを見捨ててはいない。神さまの愛は、わたしにも届いた。神さまの憐れみは、わたしにも注がれている。彼はそのことを体験しました。そして、神さまをほめたたえないではいられませんでした。そして、イエスに従うという歩みに踏み出しました。そこには、神の国のしるしが現れています。
わたしたちも、イエスに対して目が開かれ、イエスに願い求め、イエスをほめたたえる者とされています。すでに、神の国がわたしたちのところに来ているからです。あるかないかの信仰を、イエスがお受け取りくださったからです。この恵みの中を、主をほめたたえつつ、主とともに、主の御前を歩んでいくことができますように。
道であり真理であり命であるイエスは、わたしたちの信仰の導き手です。イエスに従い、希望をもって信仰の旅路を共に歩んでいけますように、教皇パウロ6世の言葉でご一緒に祈りえましょう。 お手元のプリントをご用意ください。
教皇パウロ6世の祈り
主よ、外からくる試練と
聖霊の内的輝きが一つに溶け合うことによって
わたしの信仰を確かなものとしてください。
内的平和をもたらす確信と
魂に平和を与える決意に至らせる
霊の導きによって、
わたしの信仰が確固としたものでありますように。
主よ、わたしの信仰が喜びに満ちたもの、
わたしの魂に平安と喜びをもたらすもの、
神に祈り、人々と語るようにしてください。
これらの聖なる出会いによって
幸せを輝かせることができますように。
主よ、わたしの信仰を謙虚なもの
聖霊の証しに委ねるものとしてください。アーメン。
最後に聖パウロが語っているローマの信徒への手紙を聞きましょう。
ローマの信徒への手紙 10.8~10
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。
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