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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2013年7月6日


ヒペリカム



主の御跡を歩む

主イエスよ、
わたしたちは あなたについて行きます。
わたしたちが あなたについて行けるように
わたしたちを召し出してください。
なぜなら あなたなしでは だれも歩むことができません。

ほんとう あなたはわたしたちにとって
道であり、真理であり、いのちです。
平らな道のように、
わたしたちを迎えいれてください。

真理が安心させるように、
わたしたちを請け合ってください。
あなたは いのちですから、
わたしたちをいのちのある者としてください。
                 (ミラノのアンブロシウスの祈り)


カトリック教会は、昨年の10月11日から今年の11月24日、「王であるキリスト」の祭日までを「信仰年」と定めました。わたしたちはこの「信仰年」をとおして、もう一度信仰の恵みを見つめ直す旅に招かれています。わたしたち自身がどのように信仰の喜びを生きているか、信仰から来る希望と愛をいだいているかを問い直してみましょう。神さまが、わたしたちの信仰に新たな光を与えてくださるように、信仰年の実りを求めて、祈ってまいりましょう。

今晩の「アレオパゴスの祈り」は、江戸時代の末期、1865年3月17日に、長崎の大浦天主堂でキリシタンが発見された出来事をとりあげたいと思います。彼らは、厳しい迫害の中、司祭を失ったまま、7世代、250年もの長い間、キリストへの篤い信仰をもって耐え忍び、代々伝え聞いた信仰を守り通してきました。この記念すべき日、日本のキリスト教の歴史の中で、隠れキリシタンと呼ばれるキリスト信者がいたことが明らかになりました。

まさに奇跡とも言えるこの感動的な出会いが、小さなマリア像をとおして行われました。当時のローマ教皇ピオ9世のもとに、この報告が届いたとき、教皇は感激し、「東洋の奇跡」と呼んで祝福したと言われています。わたしたちも彼らの模範にならい、信仰を成長させていくことができるよう、恵みを願って祈りましょう。祭壇にローソクをささげましょう。

1865年3月17日は、日本のカトリック教会にとって特別な日、世界にとっても驚くべき歴史的な日になりました。それが「長崎の信徒発見記念日」です。

少し歴史的背景に触れながら、この出来事を見ていきたいと思います。日本にキリスト教が、フランシスコ・ザビエルによって伝えられたのは、1549年でした。さまざまな困難や妨害もありましたが、宣教師たちの熱心な努力と働きが実り、キリスト教の信仰は短期間のうちに日本中に広まっていきました。

しかし、信仰とは直接関係のない問題と結びつき、迫害の歴史が始まります。1587年に、豊臣秀吉は、バテレン追放令を出し、宣教師を国外に追放してしまいます。当時、神父たちは、バテレンと呼ばれていました。信徒は、捕らえられて厳しい拷問を受けました。日本26聖人の殉教はそのような中で起こりました。

江戸時代になると、さらに、キリスト教徒に対する厳しい取り締まりは続き、鎖国政策がとられ、新たな宣教師の入国は絶望的となりました。1637年に島原の乱が起こってからは、取り締まりは さらに厳しさを増していきました。

1642年、4名の外国人宣教師が西坂で処刑され、その他の神父たちは、江戸に送られ、死ぬまでキリシタン屋敷に閉じ込められました。これで、日本は、完全に閉ざされた国となり、キリシタンたちは、外からの助けを受けることができなくなりました。自分たちだけにとり残されたキリシタンたちは、約250年もの間、迫害の波の中で、信仰を守り伝えることになります。

時は流れ、1854年アメリカのペリーが日本と条約を結び、日本は、続いてオランダ、フランスと条約を取り交わしました。そして、ついに開国に至り、海外からの神父たちの入国が可能になりました。しかし、鎖国政策がとかれても、まだ禁教令は続いていました。

このような状況の中、外国人が自分たちのための教会を建てることが認められました。最初の教会は1862年横浜に建てられ、その後1865年に長崎の大浦にも26聖人にささげられた「フランス寺」と呼ばれる美しい教会が完成しました。この天主堂を完成したのが、パリ外国宣教会のプチジャン神父でした。

大浦天主堂
大浦天主堂


教会を建てるにあたって プチジャン神父には一つの願いがありました。多くの殉教者を出した長崎にはきっと信者の種が隠されているに違いない、教会ができればすぐにでも名乗り出てきてくれるだろうと期待していたのです。

ところが献堂式の日には日本人はだれも姿を見せません。それでも諦めないで、神父は町々村々にでかけてキリシタンらしい人はいないか、家はないかと訪ねて歩きました。子どもたちにお菓子を与えて、食べるときに十字をきりはしないかと気をつけてみてみたり、わざと落馬してキリシタンなら思わず助けてくれはしないかと試してみたり、色々とやってみましたが、みんなあてが外れて信者らしい人とは一人も出会えませんでした。

天主堂の献堂式から、一か月後の3月17日のことでした。教会内に置かれた聖母マリアのご像を見た数名の人々が見物人を装ってプチジャン神父に会いに来ました。そして自分たちも同じ信仰をもっていることを告げました。彼らこそ、あの迫害を耐え抜いて信仰を守り伝えていったキリシタンたちの子孫でした。

この信徒発見の出来事の様子を、プチジャン神父が、当時のパリ外国宣教会の日本教区長だったジラール神父に宛てた手紙から知ることができます。その手紙をご紹介しましょう。


親愛なる教区長様、心からお喜びください。

わたしたちはすぐ近くに昔のキリシタンの子孫をたくさんもっているのです。 しかし、まずわたしにこの感動すべき場面、わたしが自らあずかって こうした判断を下すに至りましたその場面を簡単に物語らせてください。

昨日12時半頃、男女と子どもたちが混ざった12名から15名程の一団が天主堂の前に立っていました。ただの好奇心から来たものとは何やら態度が違っている様子でした。天主堂の門は閉まっていましたからわたしは急いで門を開き聖所の方に進んでいきますと参観人も後からついてまいりました。

わたしは、献堂式のあった一か月前にあなたがわたしたちにお与えくださいました御主、わたしたちが聖体の形式の下に愛の牢獄たる聖櫃(せいひつ)内に奉安している御主の祝福を彼らの上に心から祈りました。ほんの一瞬祈ったと思う頃、年頃は40歳から50歳くらいの婦人の独りが、わたしのそばに近づき胸に手をあてて申しました。

「ここにおりますわたしたちは、みな貴方様と同じ心でございます。」
「ほんとうですか? どこのお方ですあなたがたは」
「わたしたちはみな、浦上の者でございます。浦上ではほとんどみなわたしたちと同じ心をもっております。」 こう答えてから、その同じ人がすぐわたしに 「サンタ・マリアの御像はどこ?」 と訊ねました。

サンタ・マリア! このめでたい御名を耳にして、もうわたしは少しも疑いません。今わたしの前にいる人たちは、昔のキリシタンの子孫に違いない。わたしはこの慰めと喜びを神に感謝しました。そして愛する人々に取り囲まれてサンタ・マリアの祭壇の前に彼らを案内しました。 彼らはみな、わたしにならってひざまずきました。祈りを唱えようとする風でしたが、しかし喜びに耐え切れず聖母の御像を仰ぎ見るや口を揃え
「ほんとうサンタ・マリア様だよ。ご覧よ、御腕に御子イエス様を抱いておいでです。」 と言うのでした。

この善良な参観者たちが聖母マリアの聖像を眺めて感動している間に、他の日本人が天主堂に入ってまいりました。わたしの周囲にいた彼らはたちまちパッと八方に散り散りとなりましたが、すぐまた帰って来て、 「今の人たちもわたしたちと同じ心でございます。ご心配いりません。」 と申しました。

わたしは天主堂内を巡覧する色々な人々が行ったり来たりするのに妨げられて、この参観者たちと思う存分話をすることができませんでしたので、また出直して会いに来るようにと浦上のキリシタンと取り決めをしました。彼らが何を保存しているのか少しずつ確かめましょう。彼らはクルス(十字架)を崇め、サンタ・マリアを大切にし、祈りを唱えています。しかしそれがどんな祈りであるかわたしにはまだ分かりません。その他の詳しいことは近日中にお知らせ申し上げます。

1865年3月18日  長崎にて
ベルナール・プチジャン

長崎世界遺産ポスター
「長崎から世界遺産を」のポスターに載っている信徒発見の聖母子像


信徒たちは、世代から世代へ、250年の長い間、ひそかに信仰を守り続けてきました。1644年以降、宣教師を失ったキリシタンたちは、表面では仏教徒を装い、踏み絵を強要されながらも、祈りを唱えて信仰を守り続けました。告白したのは杉本ゆりという女性でした。しかしこの「東洋の奇跡」が皮肉にも「浦上四番崩れ」という浦上の信徒たちに最大の迫害を呼び起こしてしまいます。

多くの人々が浦上から毎日のように大浦天主堂を見に行ったことで奉行所が“これはおかしい”とスパイを派遣しました。そして、幕府に報告されてしまいます。また、禁教時代、浦上の潜伏キリシタンたちは仏教徒を装っていたので、その多くが聖徳寺というお寺の檀家になっていたようです。

しかし、信徒発見の出来事があってから、彼らは開き直って、寺では葬儀をあげたくないと、この寺との関係をやめようとしたり、夜の集会をもったことがきっかけとなり、浦上四番崩れへとつながりました。”崩れ”とは、隠れキリシタンを摘発して処刑することを言います。

神父が訪れてくるようになると、浦上の信徒たちは、しだいに自信をもつようになり公然と信仰を表明するようになりました。もう黙っていることはできなかったのでしょう。1868年、徳川幕府は倒されて、明治維新になりましたが、維新の政治家たちも、キリシタンにたいして、幕府と同じ指針を取り、浦上の多くの信徒たちは、流刑となって、さまざまな地域に流され、拷問を受けました。浦上のキリシタンの拠点を根絶することを目指した迫害でした。その数は3394人に達したと言われています。

津和野の乙女峠というところに送られた信者たちは、とくにひどい扱いを受けました。寒さは厳しく、食べ物は不足し、凍った池の水につけられる拷問を受けました。その中でも、16歳の守山祐次郎は、三尺牢の狭い牢の中に入れられました。厳しい寒さ中で、裸にされ、十字架にしばられたまま何時間もおかれ、息絶え絶えになると、ふたたび牢に戻されました。祐次郎は、夜中にそっと慰めにいった兄の守山甚三郎に次のように話しています。

“毎晩、美しい婦人が慰めに来てくださるので、そんなに苦しくありません。きっとサンタ・マリア様だろうと思います”と。そして、彼は、そのまま三尺牢の中で、いのちをささげました。

浦上だけでなく、他の長崎の信徒たちも、重い弾圧に耐えなければなりませんでした。しかし、当時、彼ら自身は気づかなかったかもしれないが、彼らの信仰と、迫害の中での忍耐と犠牲こそが禁教令の廃止とキリスト教会のためだけではなく、日本全体の信仰の自由という大きな恵みをもたらしてくれました。

「清いこころで」 ① ② ③

司祭のいない中で本質的な信仰を守り通した信徒たちがいることは、すぐに世界に発信され、大きな驚きと喜びを与えました。それにしてもなぜ、潜伏キリシタンたちは250年もの間、厳しい禁教下で迫害を受けても、長い間、信仰を守り続けることができたのでしょうか。

第一に、彼ら自身の強い信仰があったからでしょう。また、同時に宣教師たちが、このように厳しい状態が長く続くのではないかと、司祭不在を予測して、主な教えと信仰を伝えていく制度を定着させていったことも大きな要因だったと言えます。

実際、キリシタンの仲間内では役割がしっかりと受け継がれていきました。キリスト教の根本的な教えのほかに、聖母マリアへの崇敬、司祭の独身制、ローマ教皇の首位権など、プチジャン神父が彼らの信仰をカトリックの信仰と認めることができるような教えを正確に伝えていました。また、彼らが典礼暦を受け伝え、忠実に守っていたことも知られています。

実を結ぶ信仰とは、単にみ言葉を受け入れることだけでなく、さまざまな試練に耐え、誘惑や過ちに敢然と立ち向かい、その中でゆるぎなく堅固に歩み続けることだと思います。それは決してたやすいことではありません。終わりが見えている苦難なら耐え忍ぶこともできるでしょう。しかし、迫害の時代、この信仰の忍耐はいつまで続くのか、どこが出口なのか、彼らには、全く見えませんでした。。

それでも耐え忍ぶ者には想像することすらできない実が与えられます。この意味で、禁教下で信仰を守り抜いたキリシタンたちの模範はわたしたちを大いに力づけてくれます。彼らは耐え忍んだだけでなく、自分が生きている間にこの実が結ばれなくとも信仰を捨てませんでした。いつか必ずこの世でも百倍の実が結ばれることを信じ、希望して耐え忍びました。。

わたしたちも彼らの模範にならいたいと思います。確かにわたしたちの時代は、信教の自由が保証されています。外面的な迫害はないかもしれません。しかし、わたしたちも一人ひとり言葉にすることのできない苦しみの中を歩んでいます。時には、それに負けそうになることもあります。しかし、百倍の実に希望を置き、耐え忍びながら、信仰を成長させることができますように祈ってまいりましょう。。

「一粒の麦」

この隠れキリシタンとプチジャン神父との出会いの要となったのが、皆さまのお手元のハガキにあるマリア像でした。世界宗教史上、類を見ないこの出来事が、この小さなマリア像の前で起こりました。この時の聖母子像は、『信徒発見のマリア像』と呼ばれ、現在も大浦天主堂の中の右側の小祭壇に置かれ、訪れる多くの人々を温かく見守っています。

最後にヨハネによる福音の言葉を聞きましょう。 「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ それは一粒のまま残る。しかし、死ねば 豊かな実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)

わたしたちの主キリストとのかかわりをますます深め、信仰の炎を強めていくことができますように。祈りを込めながら、今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。



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