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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2013年12月7日


サザンカ



12月に入り、今年も残すところあと3週間余りとなりました。カトリック教会の暦では、待降節と呼ばれるキリストの誕生を待ち望む準備の期間を迎えました。この「待ち望む」にはふたつの意味があります。ひとつは、2000年前にキリストがこの世に来られたことを記念するご降誕の日を待ち望むこと。そして、もうひとつは、キリストが再びこの世に来ると言われた約束が実現する日を待ち望むことのふたつの意味です。教会は、待降節から、新しい一年が始まります。

祭壇に向かって左にある赤い4本のローソクは、待降節の間の日曜日、つまり主の日が4回あることを示しています。一週間ごとに灯されるローソクが、1本ずつ増えていくとともに、主キリストがだんだん近づいておられることを意味しています。明日は、待降節第2主日ですから、ローソクが2本灯されています。

この一年間を振り返ってみて、一人ひとり、さまざまな出来事が思い出されるでしょう。悩んだこと、喜んだこと、感謝したこと、迷ったこと、疲れ果てたこと、もうだめだとあきらめたこと、神さまが助けてくださったことなど、神さまはわたしたちのすべてをご存知で導いてくださいました。

2013年、この世界に生きる一人ひとりの心の奥に、幼子イエスの誕生をとおして、まことの光が輝きますようにと、今年最後の「アレオパゴスの祈り」に願いを込めて祈りましょう。後ろでローソクを受け取り、祭壇にささげましょう。

わたしたちは、自分が楽しみにしていることのためなら、辛抱強く待つことができます。実際に、救い主イエス・キリストの到来を、長い間待ち続けたイスラエルの人々のこと、そしてイエス・キリストがどのように来られたのかを、今日はご一緒に思いめぐらしてみましょう。

神さまは、昔、アブラハムという人を選び、「お前の子孫から救い主が生まれるであろう」と約束されました。どんなに人々が罪を重ねても、見捨てることなく、人間を救おうとされる神は、イスラエルの歴史の中で、常に働き続けられました。それで、イスラエルの民は、約束のとおり「自分たちを救ってくださる主が来られる」という信仰を持ち続けることができました。

紀元前1000年ころ、イスラエルは、ダビデという王様が支配していました。このダビデ王の子孫から救い主が生まれるであろうとの期待が、人々の中に育っていきました。苦しい歴史が続き、外国の勢力が次から次へと押し寄せて、ついに神殿は破壊され、祖国から追放されることも体験しました。試練の中でも、救い主が来られるという希望を、次の世代へと伝えていきました。救い主が来られるというゆるぎない信仰が、彼らの心を常に支えてきました。そしてついにその時が来ました……

旧約聖書のイザヤの預言を聞きましょう。 (イザヤ書 9.1-2、5)

闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと
大きな楽しみをお与えになり
人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように
戦利品を分け合って楽しむように。

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

『祈りの歌を風にのせ』 p.46「ひとりのみどりごが」

新約聖書の中には、イエスの誕生が記されているマタイによる福音書とルカによる福音書の二つの福音書があります。それぞれ違った観点から書かれていますが、ルカ福音書はクリスマスで、マタイ福音書は、主のご公現と呼ばれる祝日に読まれます。今日は、マタイが伝えるイエスの誕生の物語を取り上げたいと思います。

クリスマス


マタイによる福音 2.1~12

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

東の世界から、輝く星を見て、救い主に出会うために、旅を続け、エルサレムに訪問者が着きます。彼らが、この生れたばかりの赤ちゃんが、救い主であること、王であるということを知ることができたことは、とても不思議なことです。

この訪問者たちは、占星術の学者たちと訳されていますが、原文ではマギと呼ばれる魔術師、占い師でした。ユダヤの社会では、偶像礼拝をする者として軽蔑されていた人たちです。彼らは、闇の中にいる人、白い目で見られている人たちでした。その人たちが、星に導かれてやってきたのです。

本当の意味で、真実に飢え渇き、救いを求めていた人たちでした。神は、救い主イエスのもとにマギたちを夜空の星の光をとおして導かれました。学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越え、才能のあるなしにかかわらず、すべての人にもたらされるということを示しています。この物語の中に、救いの大きな広がりを感じることができます。

ユダヤの多くの人々は、星の存在を知らされても、ヘロデのように、その星と自分の心を結びつけることができませんでした。別の星の光、目先の光、目先の幸福にとらわれていたからです。

マギたちは、自分の心を照らしてくれる星、自分の心を導く星の光に従いました。そして、自分の人生の飢え渇きに応えてくれる何かを探し始めます。彼らの旅が始まりました。人生とは旅です。旅は、ときには厳しく、辛く、危険なものです。しかし、彼らは大胆に旅立ちます。本物の光があると信じていたからです。

わたしたちも同じように、この人生の旅、真実のものとの出会いを求めて、旅を続けていけますように。その旅がどんな形になったとしても、本当の光であり救いであるイエスに出会うために、忍耐強く求め歩み続けていけますように。

さて、もう一つのご降誕にまつわる物語、ヘンリー・ヴァン・ダイクの短編小説 「4人目の賢者」をとおして、イエスの望まれる生き方を考えてみましょう。

先ほど朗読した、マタイの福音書2章に、幼子イエスのもとを訪れた東方の学者たちが、贈り物を贈った記事があります。聖書には学者たちの人数や名前は何も記されていませんが、一般的には3人と言われています。イエスにささげられた、黄金・乳香・没薬の3種類の贈り物から連想されたと思われます。次第に教会の伝統の中で脚色されて、バルタザール、メルキオール、カスパーという三人の名前が定着していきました。

ダイクの小説『4人目の賢者』は、この3人に遅れて出発したもうひとりの賢者がいたという伝説に基づいた物語です。

主人公はペルシャの医師アルタバンです。彼は、天空に輝く特別な星を見て、他の3人の学者たちと共に、日頃耳にしているユダヤ人の救い主に会いに出かけることを決心します。自分の全財産を売り払い、贈り物として、サファイヤ、ルビー、そして、大きな真珠の3つの宝石を買い、ひとりの伴(とも)の者を連れて旅立ちました。

ところが、砂漠で瀕死の病人を介抱したために、3人の学者たちとの待ち合わせに遅れてしまいます。そのため、ベツレヘムでのイエスの誕生には間に合いませんでした。イエスの誕生後、それを恐れたヘロデ大王がベツレヘム周辺の2歳以下の男の子皆殺しにするよう命じます。アルタバンは、殺されかける子どもを救うため、イエスへの贈り物をひとつ兵士の隊長に渡してしまいます。救い主に会い、人が生きることの真の意味を教えてもらいたい一心で旅を続けるアルタバンは、その後も、旅の道中で病人や虐げられた人々をいやしし、慰め、イエスのために準備した贈り物を次々手放してしまいました。

やがて旅は出発から33年も経ち、年老いて病身となったアルタバンは、やっとエルサレムに着きます。自分が探し続けたメシアが十字架にかけられて死ぬ直前にあることを知ります。手元に残っている最後の贈り物、真珠を用いてイエスのいのちを救おうとしますが、ゴルゴタの丘に行く途中、かつての友人の娘の解放と引き替えに、最後の真珠を与えてしまいました。

イエスは十字架で処刑され、アルタバンは、とうとうイエスに会うことができませんでした。今やアルタバンは無一文で、死にかかっていました。すべてを失って彼のいのちの灯が消えかけたその瞬間にイエスが現れます。アルタバンの耳にささやく声が聞こえました。それはイエスの声でした。アルタバンは「あなたはわたしの神ですか? あなたはまだ亡くなっていないのですか? ああ、主よ! あなたをずっと探し続けていました。おゆるせしください。あなたに贈り物をささげるつもりだったのですが、今は何も持っていないのです。」しかしイエスは、こう語られます。「あなたは、わたしに会えなかったと言うが、何度も何度も会っていたのだよ。」

アルタバンは尋ねます。「主よ、いつわたしはあなたに出会ったのですか? 33年間、あなたを探し続けましたが、お顔を見ることも、お世話することもありませんでした。お会いしたのは今が初めてです。」

イエスは答えます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(マタイ25.35-36)

「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしてくれた」とのイエスの言葉を聞きながら、4人目の賢者アルタバンは、彼の贈り物がすべて救い主に届いたことを知り、深い慰めと満足を得て息を引き取りました。救い主キリストに会いたい、希望の星に出会いたいという渇望と信仰が彼の旅を貫き、彼の長い旅は、終わりました。

クリスマスは、アルタバンのように、幼な子にささげる「心の真珠」を各自が持って、イエスの姿を人々の中に見いだす、わたしたちの旅の始まりと言えるのではないでしょうか。アルタバンの物語からひたすら主を求め、救いを求める信仰と、具体的な出会いを大切にするという行いは、一つであるということを教えられたような気がします。

それでは、飼い葉桶にひっそりと眠る幼子イエスを心に迎えて、ご一緒に歌いましょう。

『カトリック聖歌集』No.607「しずけき」 ① ②

最後に、東京教区の晴佐久神父さまが作られたクリスマスの詩、「クリスマスの夜は」を朗読いたします。

クリスマス


クリスマスの夜は

クリスマスの夜は やさしいこころで 迎えたい
いつも おこってばかりいた
いじわるで つめたかったから
迎えたい この夜だけは ほほえみとあったかいことばで

クリスマスの夜は キャンドル灯して 祈りたい
いつも 自分のことばかり
住む家も ない人のために
祈りたい この夜だけは わたしにも何かできるはずと

クリスマスの夜は このプレゼントを 贈りたい
いつも なにもできないけど
たいせつな あなたへの想い
贈りたい この夜だけは とくべつのありがとうをこめて

クリスマスの夜は 天使といっしょに 歌いたい
いつも 自分を責めてきた
生きていく 元気をください
歌いたい この夜だけは この星に生まれてよかったと

クリスマスの夜は ゆるせない人を ゆるせしたい
いつも 相手を責めてきた
自分だけ 正しいつもりで
ゆるせしたい この夜だけは ごめんなさいわたしもわるかった

クリスマスの夜は いやしの力を 信じたい
いつも あきらめていたから
いつの日か 笑顔になれると
信じたい この夜だけは つらくても生きていけるんだと

クリスマスの夜は 心やすらかに 眠りたい
いつも あしたを心配し
過ぎし日を 後悔していた
眠りたい この夜だけは ぐっすりとやわらかな馬ぶねで

クリスマスの夜は 天国の夢を 見ていたい
いつも この世のことだけで 親ごころを忘れて生きてた
夢見たい この夜だけは きよらかなこどもに還って

          晴佐久 昌英著『だいじょうぶだよ』(女子パウロ会)


これで今年の「アレオパゴスの祈り」を終わります。



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