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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2014年 2月 1日


冬のバラ



新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いのよい知らせを告げよ。
国々に主の栄光を語り伝えよ
諸国の民にその驚くべき御業を。
大いなる主、大いに賛美される主
神々を超えて、最も畏るべき方。
                詩編96.1-4

新しい年、2014年も2月を迎えました。2014年が神さまの祝福に満たされた希望の年となりますように。そして、今年も、“アレオパゴスの祈り”をとおして、神さまの豊かな愛と憐れみに触れていけますようご一緒に願って祈りましょう。後ろでローソクを受け取り、祭壇上のハガキをお取りになって席にお戻りください。

今年、2014年、パウロ家族は、創立100周年を迎えます。パウロ家族とは、創立者ヤコブ・アルベリオーネ神父によって創られた、わたしたちの修道会、聖パウロ女子修道会をはじめ、5つの修道会、4つの在俗会、1つの協力者会のことです。

ヤコブ・アルベリオーネ神父は、すべての人々をキリストのもとに導くために、現代的な手段による福音宣教を始めました。彼は、次のように語っています。「パウロ家族は、使徒の女王マリアのまなざしの下に、聖パウロの精神で、道・真理・いのちであるイエス・キリストを余すところなく生きる」。

パウロ家族は、それぞれの会が持つ固有の使命に従いながら、創立者の望んだ「すべての人にキリストを宣べ伝える」ことを目指して日々献身しています。

日本においては、1934年、来日した2人のイタリア人司祭によって、聖パウロ修道会が始められ、現在、聖パウロ修道会、聖パウロ女子修道会、師イエズス修道女会の3つの修道会と1つの在俗会、聖マリア・アンヌンチアータ会、そして、多くの信徒の協力者会員もパウロ家族と結ばれ、祈りと活動を行っています。 今年、はじめてのアレオパゴスの祈りは、この2月5日で亡くなって50年を迎えるわたしたち聖パウロ女子修道会の初代総長、シスターテクラ・メルロについてご紹介したいと思います。

シスターテクラ・メルロは、パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父のかたわらにあって、創立者のよき理解者として、かずかずの創立を助けました。パウロ家族の“母”と呼ばれ、愛され、亡くなった今も慕われて続けています。

シスターテクラ・メルロは、1894年2月20日、北イタリア、クネオ県のカスタニートに、4人兄弟の2番目として生まれ、テレサと名づけられました。家は豊かな農家で、特に母親は信仰の深い人でした。4人の子どもたちを、信仰の面でも生活の面でもよく教育していました。テレサの誠実な生き方と善への奮発心は、このような家族の中での深い確信に支えられていました。3人の兄弟に囲まれた一人娘のテレサは、愛らしくて活発な子でした。しかし、彼女は身体が弱かったため、両親は彼女のことが気がかりでした。母方の祖母は、このテレサに何か特別なものを感じ、自分の娘にこう言っていました。「テレサをりっぱに育てなさい。あの子は何か偉大なことをするように召されている」と。

小学校を終えると、縫い物、刺しゅう、編み物などの基礎を習うため、アルバの聖アンナ会のシスターたちのもとに行きました。その後、両親はトリノの知人に彼女を預けました。そこで、裁断と裁縫の腕を磨いたテレサは、専門家になってカスタニートに帰ってきました。

テレサが開いた裁縫教室に少女たちは喜んで通い、テレサのうちに、最良な裁縫の師の姿と、同時にすぐれたキリスト者の模範を見ていました。

テレサは、村のカテキスタとしても活躍し、深い確信を持って、愛する信仰、滋養に富んだ霊の糧である信仰を伝えました。彼女自身は、それで満足せず、何かもっと徹底的なものを求めていました。「神と使徒職に全身全霊を捧げたい!」と願っていたのです。

彼女は、トリノにある貧しい人や身体障害者への奉仕をしているコットレンゴ修道会を知り、コットレンゴ会に入りたいと願い出ました。しかし、長上は彼女を見てから次のように言いました。「あなたはあまり顔色がよくないようですね。あまりにも健康がデリケートです。村に戻って、もう少し元気になるようにしなさい。」コットレンゴ会に入るのを断られたその後にアルベリオーネ神父との出会いが待っていました。

アルベリオーネ神父は、神学生の時から「神の栄光のため、新世紀の人々のために何かするよう神に招かれている」と感じていました。具体的には、神に自己を奉献する使徒たちの群れを作る必要があると感じていたのです。新しい使徒の群れは、全生涯を福音の普及とキリスト教の普及に献身し、その手段として良書を、そして将来は、科学の進歩が人類に提供するあらゆるコミュニケーション・メディアを用いることを目指していました。アルベリオーネ神父は、祈り、研究し、何年もの間準備の時を過ごしていました。そして未来の協力者となる人の養成を始めていました。

1914年8月20日、この日は男子の聖パウロ修道会が始まった日です。それは質素な始まりでしが、神がお望みになる業であると確信していました。創立当初、聖パウロ修道会の名称は「小さな労働者印刷学校」でした。最初の仕事として教理書を印刷しました。それから間もなく、アルバの教区新聞『ガゼッタ ダルバ』の印刷をはじめ、福音書、聖人伝、信心書、教養書なども印刷していました。

しかし、アルベリオーネ神父は、男子部のかたわらに女子部を併設しなければならないと感じていました。つまり、聖パウロ修道会と同じ目的を持って働く女子修道会を起こすことを考えていたのです。実際、彼は、女性が家庭の母として果たす使命、および、社会や教会の中でよいパン種として果たす使命に深い確信を持っていました。そのために、『司祭的熱誠に参与する女性』を執筆し、出版しました。

アルベリオーネ神父は、この新しい女子修道会の創立と指導をして、自分を助けることのできる若い女性を探していました。人々は、テレサのことを均衡の取りた娘で、善業に開かれていると同時に、祈りと霊的なことにも強く傾いている、と彼に伝えました。アルベリオーネ神父は、テレサを、み摂理が彼の事業の発展に備えてくれた「ふさわしい人」と考えました。

テクラ テクラ
ヤコブ・アルベリオーネ神父 シスターテクラ・メルロ

テレサの母ヴィンチェンツァは、アルバまで自分自身が娘を同伴して行こうと決心しました。アルベリオーネ神父とテレサとの最初の出会いはサン・ダミアノ教会で行われました。 母は聖堂に残り、娘を待っていました。テレサは、その時の様子を次のように語っています。「面会は短いものでした。アルベリオーネ神父は、『良書出版の使徒職に献身するため、神に自己を奉献したいと望む娘たちを探している。そういう使徒職によって大きな善を行うことができる。当初は少女たちのために開いたばかりの仕事場の世話をすることだが、しかしなるべく早く、印刷学校の少年や神学生がすでにしているように、少女たちも完全に良書出版に献身することになろう』とおっしゃいました」。

テレサは、アルベリオーネ神父の申し出を母に報告しました。母は心配そうに彼女にどのように返事したのかと尋ねると、「『はい』と言いました」とテレサは答えたのです。そして、その2日後、1915年6月29日、アルベリオーネ神父の必要に自分のすべてを備えるためアルバへと出発しました。

アルバで、テレサは、アンジェラ・ボッフィという女性のもとで、数年の間、良書出版の理想をともに分かちあっていました。会社員だったアンジェラはほとんど毎日家を留守にしていたため、未来の聖パウロの娘の中心はテレサでした。主なことは、縫製作業場の仕事を指揮することでした。

当時は第1次世界大戦が勃発したばかりで、彼女たちは特に兵士たちの下着を縫っていました。裁縫の仕事ではテレサも専門家でしたが、ここでは別の精神を持ってその仕事を果たしてゆかねばなりませんでした。事実、アルベリオーネ神父は司教に次のように書いています。「縫製作業場は、女性的仕事を教えることと同時に、善良で教養のあるカテキスタを養成するという目的を持っています」と。またこうも付け加えています。「作業場の目的の一つである宣教活動を実践するため、また、印刷学校では実施できない店頭販売を望んでいるため、書物と宗教用品を扱う小さな店でもあります」と。

テレサは次のように書いています。「わたしたちは、アルベリオーネ神父さまに全幅の信頼を寄せていました。ただ神さまのご意志とわたしたちの善だけを求める父親に導かれているような気がしていたので、わたしたちの心は安らかに憩うのでした。人々の批判は絶えませんでした。けれども、彼はいつもわたしたちを喜んでいられるようにしてくださいました」。彼女たちは、印刷学校の少年や神学生たちのように、自分たち固有の仕事をすることのできる日を待ち焦がれていました。

1918年、スーザの司教モンシニョール・ジュゼッペ・カステッリは、3年まえから休刊になっていた新聞『ラ・ヴァル・スーザ』の発行を再開して欲しいと、アルベリオーネ神父に依頼しました。

アルベリオーネ神父は縫製作業場の少女たちのことを考えました。よく祈ってから彼女たちに、モンシニョール・カステッリの要請を受けるかどうか尋ねました。彼女たちはみな元気よく「はい」と答えました。そして直ちに、活字の組み方、ページの割付け方、新聞印刷の仕方を学ぶために印刷所に通いはじめました。

まさに、奇跡です! 彼女たちの努力によって、週刊紙『ラ・ヴァル・スーザ』が毎週定期的に発行されました。司教は、彼女たちの働きに満足し、町の人々や教区の司祭たちは、修道服なしでも真の修道生活をしている彼女たちのグループに親しみを覚え、その家に聖パウロの額があるのを見て、彼女たちを「聖パウロの娘」と呼ぶようになりました

彼女たちは新聞を印刷し、普及しました。小さな書院を開き、司祭や信徒たちは、本や聖品を買うようになりました。また、何らかの資格を持つ青少年たちが、勉学や使徒職に献身しようと集まってきました。スーザで、聖パウロの娘たちは、将来自分たちのものになる良書出版使徒職の基礎を身につけていきました。

聖パウロの娘たちがスーザで活躍している間に、アルバでもう一つのグループが、直接アルベリオーネ神父の手で形成されていきました。創立者は、一つの家族を作るため、スーザのグループをアルバに呼び戻すことにしたのです。

1922年7月、アルバとスーザの女子の黙想会を計画し、この黙想会の終わりに、その中の9人が、私的に修道誓願を立てました。誓願宣立にあたり彼女たちは新しい名前をいただき、 テレサは、テクラという誓願名に“師イエス”に敬意を表して「マエストラ」という呼び名がつけられました。 「マエストラ」とは先生とか師とかいう意味です。

テクラ


アルベリオーネ神父は、テレサが“マエストラ・テクラ”と呼ばれることを望んでいました。彼女こそ聖パウロの娘たちとパウロ家族の他の会の「優しくて強い母」となるはずだったからです。

7月22日に、聖パウロ女子修道会は公に発足しました。創立者は、次のように語りました。「今日からあなたたちの総長はマエストラ・テクラです。向こう12年の総長として彼女を任命します。その後はあなたたちで考えなさい」と。その時から生涯の終わりまで、マエストラ・テクラは聖パウロの娘たちの長上であり、母となりました。

彼女は、謙遜と信仰において、この任務を受け取りました。使命に基づく事業は神のものであり、すべてを行うのは神である、と信じること、創立者の指導につねに従うこと、たとえ指示されることが不可能に見えたり、矛盾のようであってもつねに従うこと。ここに、彼女の偉大さと聖性の秘訣がありました。

アルベリオーネ神父の創立したパウロ家族には10本の枝があります。5つの修道会と4つの在俗会、そして聖パウロの協力者会です。これらの各会の創設にあたって、マエストラ・テクラはアルベリオーネ神父の期待どおり、パウロ家族の他の会の「優しくて強い母」として、具体的援助と母性的励ましを送ったのでした。

「清い心で」① ② ③

「全世界に行って、すべての被造物に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)

「前進しなさい、聖パウロの娘たち。あなたたちの境界線は世界の果てです! すべての人を愛して真理を伝えなさい」。これは、アルベリオーネ神父が折あるごとに力をこめて繰り返していた言葉です。マエストラ・テクラの力強い腕に支えられた聖パウロの娘たちは、海を越えて高く飛び立つ準備をしました。アルゼンチン、ブラジル、アメリカ合衆国、インド、フィリピン、日本、カナダ、ラテンアメリカ、アフリカ、オーストラリアなどに出かけていきました。

イタリアや外国で修道院が増えるにつれ、マエストラ・テクラと創立者には各共同体の様子を自ら確かめ、彼らの精神を鼓舞し、困難に遭遇している姉妹たちを支え、福音宣教の新しいイニシアティブを承認するために、非常に多くの旅行が要求されるようになりました。車で、船で、後年は飛行機で旅をしました。

テクラ


聖パウロの娘たちは、創立者の次の言葉を忘れることができません。「あなたたちは、マエストラ・テクラの中にいつも謙遜と信仰の鑑(かがみ)や模範を持っています。そのように生きなさい! マエストラ・テクラはあなたたちに道を用意してくださいました。そのように歩みなさい!」

1961年5月28日聖三位一体の祝日に「すべての聖パウロの娘が聖となりますように」と言って、自分のいのちを神に奉献しました。それから3年後の1964年2月5日、永遠の世界へと旅立ちました。

最後に、マエストラ・テクラについて、聖ベネディクト女子修道院大修院長が語っておられる話をご紹介しましょう。

第2次世界大戦の1944年2月のことです。モンテカッシーノにあるわたしたちの修道院は、爆撃を受け、めちゃめちゃに壊されてしまいました。シスターテクラ・メルロは、すっかり希望を失い深い悲しみの中にあるわたしたちを、全員受け入れてくださいました。そして、いつもの快活さと母性的態度で慰めてくださいました。

ある日、わたしは、「マエストラ・テクラ、いつもあなたの娘たちのパンを食べることを恥ずかしく思います。」と言いました。彼女は、しばらくわたしを見つめ、ほほえみを浮かべて、「そんなことをおっしゃってはいけません。すべて、神さまにお任せしましょう。しっかりしてください。大修院長さま。」といわれました。わたしたちは、また元気づけられました。

わたしたちは、マエストラ・テクラのところに11カ月滞在させていただいて、それから、聖パウロ女子修道会の丘にあるヴィッラ・スタラーチェという別館を借りて移りました。マエストラ・テクラは、安心させるような声で、「初めはいろいろと不便や苦しみがあるでしょう。あなたがたの状態はよくわかっていますから、できるだけおてつだいします。わたしたちも最初のころの悲惨と貧しさをよく覚えています。でも神さまへの信頼は、いつもわたしたちの支えでしたし、これからもそうでしょう。」といって、何でもくださいました。お皿、コップ、下着、洋服、食べ物、なにからなにまで。わたしたちを訪ね、またシスターを送ってわたしたちの健康状態や精神的経済的状態はどうかと尋ねてくださり、手に入るかぎりのものを何でも分けてくださいました。少し寂しいところにあったので、番犬としての犬もくださいました。

マエストラ・テクラは、「わたしの考えと目はあなたがたの方に向かいます。みなさんを祝福し、みなさんのために祈ります。」とたびたびいってくださいました。

マエストラ・テクラのところにいた、11カ月の間に、わたしたちは彼女の多くの徳をながめ、感嘆することができました。愛徳において、信仰の精神において、祈りの精神において、深い謙遜において、彼女に接することができました。マエストラ・テクラは、神を深く愛しておられました。だれかれとなく励まし、信仰の言葉をかけ、深く広い愛を惜しみなく与えておられました。人を助けたり、お金を与えたりすることがとてもむずかしかった時代に、本当に深い慈悲を示されました。

神さまへの深い信仰と謙遜の模範を生きた、シスターテクラ・メルロとともに祈りましょう。

パウロ家族の祈り : 謙遜の祈り
  神よ、あなたは、わたしが自分の力に頼らないことを知っておられます。
  いつくしみによって、使徒パウロを、
  あらゆる困難の時の守り手としてください。
  わたしひとりでは何もできません。
  神がともにいてくださるなら何でもできます。
  神への愛のためにすべてを行います。
  神には誉れ、わたしには永遠の幸せがありますように。

これで今晩のアレオパゴスの祈りを終わります。




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