アレオパゴスの祈り
アレオパゴスの祈り 2014年 3月 1日
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦(とりで)の塔
わたしは決して動揺しない。
わたしの魂よ。沈黙して、ただ神に向かえ。
神にのみ、わたしの希望をおいている。
神はわたしの岩、わたしの救い、砦(とりで)の塔。
わたしは動揺しない。
わたしの救いと栄えは神にかかっている。
力と頼み、避けどころとする神のもとにある。
民よ、どのようなときにも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。
神はわたしたちの避けどころ。
詩編62.2-3、6-9
カトリック教会は、3月5日の灰の水曜日から四旬節と呼ばれる、キリストの受難を黙想する季節に入ります。四旬節とは、イエス・キリストの受難と死を思い起こしながらイエスの復活のいのちの喜びにあずかる復活祭までの準備の期間を指しています。今年の復活祭は4月20日です。また、教会は、3月をイエスの父である聖ヨセフにささげ、聖ヨセフへの信心と尊敬をもって3月19日に彼の祭日を祝います。今日は、聖ヨセフに焦点をあてて祈ってまいりましょう。
お祈りしたい意向をもって、ローソクをささげましょう。後ろでローソクを受け取り、祭壇にささげ、ハガキをお取りになって席にお戻りください。
神さまは、人々を救う計画の中で、ヨセフを選ばれました。わたしたちは、彼について、新約聖書に書かれているわずかなことだけしか知ることができません。しかし、ヨセフは、人間として大切な役割を果たしました。困惑しながら、苦しみながら、神さまが示される道を受け入れ、妻マリアと幼子イエスを守りぬきました。
はじめに、マタイ福音書にある、天使が神さまからのメッセージを夢で、ヨセフに伝える箇所を聞きましょう。
マタイによる福音書1.18-24
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。
この物語は、クリスマスの直前の日曜日に、読まれる箇所で、福音書の中で、数少ないヨセフが登場する場面です。どの福音書を読んでも、ヨセフがどのような人であったかを知る手がかりはほとんど記されていません。イエスの誕生物語を最も詳しく描いているルカも、ヨセフについてはただ「マリアのいいなずけ」として名前を記しているに過ぎません。ヨセフの人物像を知る唯一の手がかりは、このマタイによって書かれた、福音書に登場する「正しい人」という言葉だけです(マタイ1.19)。
マタイ福音書では、ヨセフの立場から救い主イエスの誕生をとらえようとしています。主の天使は、突然ヨセフに、全く予期しない方法で訪れました。「聖霊によってみごもっている」マリアのことを知って、戸惑うヨセフの姿が記されています。ヨセフは、マリアの身に起こった出来事にどれほど苦しみ悩んだことでしょう。
神さまの偉大な力の働きを前にして、正しい人ヨセフは、たじろぎます。そのようなヨセフに天使が夢に現れて、「ヨセフよ、マリアを家に迎え入れるのを恐れるな。その胎内に宿されているものは、聖霊によるものである……その子をイエスと名付けよ。自分の民をもろもろの罪から救う者となられるからである。」(マタイ1.20~21)と主の神秘を明らかにして励まします。神は、人間の自由な承諾なしには何も実現されません。人が戸惑い、悩みを乗り越えて、受け入れた自由な承諾という協力を得て、偉大なご計画を実現していかれます。
(沈黙)
イエスが誕生した後、天使は、再びヨセフの夢に現れて、幼子の命をねらっているヘロデ王の手から救うために、エジプトへ逃げるようにと導きます。さらにその後、天使は、エジプトにいるヨセフの夢に現れ、イスラエルに戻るようにメッセージを告げます。マタイ福音書の続きの箇所を聞きましょう。
マタイによる福音書 2.13-15、19-21
主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトへ逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を捜し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子と母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子と母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
イエスの誕生の喜びもつかのま、ヨセフとマリアはまたもや苦しい試練がふりかかってきます。天使がヨセフの夢の中で、「すぐに起きてイエスと母マリアを連れてエジプトに逃げる」ようお告げがありました。この知らせを聞いたヨセフはどんな思いだったでしょう。生まれたばかりのイエスと出産を終えたばかりのマリアを連れて、急いで旅に出なければならない苦しみと不安。今のように乗り物はない時代です。エジプトまではかなり遠いし、途中には砂漠もあります。頼る人はだれもいません。
しかし、ヨセフは迷わず、すべてを神さまに信頼して出発します。エジプトでの滞在も聖書は、彼らのことを何も記していませんが、苦労の連続だったにちがいありません。
さて、時は流れ、エジプトでの生活も終止符を打つときが来ます。再び天使がヨセフに夢の中で現れ、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」と告げます。ヨセフは、すぐに起きて幼子とマリアを連れて帰っていきます。決して楽な道ではないけれど、ヨセフは、神さまがそのときそのときに示してくださることに従い、心から信頼して応えていきました。
ヨセフがいつどのように亡くなったのかは、はっきりわかりませんが、イエスの公生活の間、イエスが「マリアの子」(マルコ6:3)と呼ばれていたことは、父親のヨセフが亡くなって、かなりの年月がたっていることを示しています。ヨセフは死ぬとき、おそらく、イエスと聖母マリアに囲まれて安らかに亡くなったと考えられることから、臨終の苦しみを助ける保護者として崇められるようになりました。また、教皇ピオ9世は、1870年12月8日に聖ヨセフを教会の保護者であると宣言されました。
今まで聞いたヨセフの姿を思い浮かべ、どのようなときも神さまの望みに応えていったことをしばらく思いめぐらしましょう。
ここで、聖ヨセフの取り次ぎによって恵みを得た物語をご紹介しましょう。
聖ヨセフと罪人
フランス革命の嵐が止んで、やっと平和を取り戻したパリの町に、革命の指導者と称えられた一紳士が、ある病院の一室に、ひん死の状態で横たわっていました。
革命当時は、英雄にまで祭り上げられた彼でしたが、今や見舞ってくれる人はなく、ただ死を待つばかりの病人でした。病状の悪化もさることながら、彼の霊魂の状態は目もあてられぬ有様で、毎日、口汚く家族と人間社会を呪い、神を冒涜していました。かつては彼も幸せな初聖体の思い出をもつ身でしたが、不幸にして早くから信仰を棄て、教会の司祭などとは縁切りだと断言するほどになってしまったのです。しかしいくら人間が勝手に神さまと絶交を宣言したところで、神さまとの縁は切れません。神さまは何らかの方法で人を救おうとなさるのです。
神さまは、聖ヨセフを篤く尊敬していた女性をお使いになりました。フィロメナは病気の紳士と、幼友だちでした。人の噂で彼が重病にもかかわらず、見舞う人もなく苦しんでいるということを耳にしたフィロメナは、折を見ては彼を訪ね、見舞うようになったのです。
紳士は、その訪問を喜んで受けましたが、宗教に関する話になると、苦い顔をし、がんとして耳を貸しません。フィロメナは何とかして彼の魂を救ってあげたいと思い悩み、すぐに愛する聖ヨセフにこの病人をささげ、一心にその取り次ぎを願い始めました。病人訪問もたび重なり、彼の気分のよい機会をねらって、宗教の話をしてみるのですが、一向に乗ってくれません。一策を思いついたフィロメナは、「幼いとき、あなたとわたしたちが、みんな仲良く村の教会へ行ったことを憶えている? そして、みんなひざまずいて『主の祈り』を一緒に唱えたことも? あのときは楽しかったけど」と尋ねてみました。彼は、昔を思い出している様子でしたが・・・「・・・・いや、この歳になってはもう何もかも忘れてしまったよ。何しろ随分昔のことだからな・・・ましてや祈りなんか・・・」と口をにごしました。
「そうお祈り! あなたの全快のため、昔を思い浮かべながら一緒に唱えましょう。きっと思い出すわ」。フィロメナは彼に聞こえるような声で祈り始めました。「天におられるわたしたちの父よ、・・・」中ほど唱えた頃、「ああ、その祈りは少し憶えているようだ」と小さくつぶやきました。彼はいつしかフィロメナの祈りに声を合わせていました。フィロメナはどんなに嬉しかったことでしょう。聖ヨセフがこんなに早く取り次いでくださったことに感謝しました。しかし、まだまだこれから先が心配です。どのようにして告解させ、よ臨終を遂げさせるかが問題でした。紳士の病状は日増しに目に見えて進み、もはや終わりが近いことが感じられます。フィロメナは、祈りました。どんな風に話したら彼を神さまのもとへ導けるか教えてください、と聖ヨセフに祈り続けました。彼女は、一枚の美しい聖ヨセフの絵をもって病室に入りました。
「少し周りが淋しいですから聖ヨセフの絵を飾りましょう。苦しくなったらこれを眺めてください。きっと楽になりますよ。それから、病気の回復のために9日間のお祈りをささげてはどうでしょう。“聖ヨセフわれらのために取り次いでください”。これを唱えるだけでいいですから」。話し終えたフィロメナはじっと病人の顔を見つめました。彼は静かにうなずいたのです。フィロメナは、もう九分通り大丈夫だと思いました。
病人は不思議なほど素直に祈るようになり、9日間の祈りも忠実に果たし、聖ヨセフの絵の裏に書かれていた短い祈りも唱えるようになりました。いよいよ彼の臨終が近くなり付添人がつけられました。この付添人は貧しい人でしたが、大変熱心な信者でした。付添人は、枕元に聖ヨセフの絵を飾りながら、なぜこの病人はこんな重態になっても司祭を呼ぼうとしないのか不思議でなりませんでした。そこで付添人は、「旦那様!もう天国行きは近いのに、どうして神父さまをお呼びにならないのですか? なんでしたらわたしが呼んでまいりましょうか?」。
「とんでもない、わしが神父なんぞ呼んだら、それこそ笑い者になってしまう。わしの家には司祭とか修道士とか絶対に呼ばんと約束してあるんだから」と断りました。しかし付添人は、おかまいなく「旦那様のようなよい人が神父さまを呼んでだれが笑うものですか。呼ばないほうが変に思いますよ。ほらごらんなさい。聖ヨセフがお守りになっていらっしゃるではありませんか。早く心をきれいにして天国用の晴れ着を準備なさってください」それでも病人は「いや、わしには司祭に会う資格がない」と言って受け付けません。「なぁに大丈夫ですよ、すぐにお呼びしてまいりますから」。付添人は司祭のところへ駈け出していきました。それは、聖ヨセフの9日間の祈りの7日目のことでした。
やがて9日目がやってきました。フィロメナは病人を案じて病院へ足を向けましたが、その途中、ばったり付添人と出会いました。「ああ、ちょうどいいところでした。わたしは今、あなたのお宅へ伺おうと思って急いでいるところだったんですよ。」付添人の顔は晴れ晴れとしていました。「フィロメナさん! あの方は一昨日、告解を済ませ、病者の秘跡を受けられましたよ。それでぜひあなたに来てくださるようにと頼まれたものですから」。フィロメナは夢かと喜んで病院に駆け込み、病室に入るなり、“おめでとう”と言いました。
病人はただ喜びで一杯でした。あふれる涙をこらえながらそれまでの世話と特に自分を目覚めさせてくれたことを心から感謝しました。彼は、「神さまは、わたしを見捨てなかった」と幾度も幾度も感謝の言葉を口ずさみました。そして「わたしの固い心の扉を開けてくださった方は聖ヨセフであるということをわたしは信じています」と。それから二日後、多くを赦された霊魂は、聖ヨセフに導かれながら天国へと旅立ったのです。
(聖母の騎士社 カシアノ・テティヒ著 「聖ヨセフに祈る」より抜粋)
これは実際にあったことですが、この中のどこに、直接聖ヨセフの力が働いているのかと疑問をもつ方もあるでしょう。しかし奇跡というものは外面的なものだけではなく、内面的なものもあるということをご存知ないかもしれません。ルルドの奇跡が多くの場合そうであるように、フィロメナは、聖ヨセフに信頼しきったというところに見えない奇跡の手が働いたのではないでしょうか。
パウロ家族の祈り : 聖ヨセフに向かう祈り
死を迎える人の保護者聖ヨセフ、
臨終にあるすべての人のため、また、わたしたちのために
よい死を迎えることができるよう祈ってください。
あなたは、聖なる生活によってよい死を迎え、臨終のときには、
イエスとマリアに付き添われて、深い慰めをお受けになりました。
どうか、わたしたちを不慮の死から守ってください。
生涯にわたっていつもあなたに倣い、世俗的な物事から心を離し、
死に備えて、日々天に宝を積む恵みを取り次いでください。
臨終のときには、あなたとマリアに助けられて、
信仰、希望、愛、痛悔の心をおこし、ふさわしく秘跡を受けて
安らかに息を引きとることができるようにしてください。
聖ヨセフ、わたしたちのために祈ってください。
これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。
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